宇多田ヒカル「忘却」の歌詞の意味は?解釈と考察

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宇多田ヒカルがKOHHとコラボした「忘却」。

KOHHもなかなかに特徴のある歌詞を書くわけだが、今回はその歌の歌詞の意味を考えてみたい。

作詞︰Utada Hikaru/KOHH
作曲︰Utada Hikaru

最初のKOHHのパートについて

ちなみにKOHHは26歳である。

3歳のころが良い思い出で、それが23年前なら辻褄がある。

つまり、このフレーズはKOHH本人のものであるともいえるわけだ。

好きな人がいないことが天国であり、地獄であるというのは不思議な表現だが、生きるのは死ぬことでしかないならば余計な悲しみを背負わなくてもよいという意味では、それは天国なのかもしれない。

けれど、好きな人がいないということは、生きることだけを考えれば楽しいことではないのも確かであろう。

過去にすがるなんてださいからこそ、記憶をガソリンで燃やそうとしているわけだが、このフレーズも少しずつ意味を失い、日本語としての「音」だけが残っていくサマが歌詞になっているような感じがする。

まるで忘却していくような感じである。

ところで、歌詞で出てくる好きな人って誰だろう?

それはこのアルバムの全体の構造を考えれば、少し見えてくる。

この曲が収録されているアルバムは、宇多田ヒカルの過去の回想がメインとなっている。

自分の母親について歌った「花束を君に」「真夏の通り雨」「道」はもちろんのこと、椎名林檎とこれからの決意を歌った「二時間だけのバカンス」なんかもそうで、過去に出会った誰かに対する私信というスタンスを取っている歌が多い。

それはまさしく宇多田ヒカルの記憶そのものを辿るようなものであるわけだが、この曲はあえて記憶を「忘却」するという観点から、歌詞が綴られているわけだ。

で、KOHHも3歳で父親を亡くしている。

その点は、宇多田ヒカルと同じというわけだ。

この重なりこそがポイントで、つまり、この歌の好きな人とは親のことを指している可能性が高いわけだ。

「棺桶」や「忘れたいけど忘れられない」や「みんなが泣いてる」というワードもそれで意味が繋がってくる。

もしかすると、宇多田ヒカル自身がこの歌によって、親という過去の束縛を「忘却」しようとしているのではないかということである。(アルバムのラストが「桜流し」であることもそれを象徴している)。

最初の宇多田のパートについて

冷たい手はKOHHのフレーズにも出てきた言葉だ。

KOHHのフレーズはまるでこわい夢だったかのように、宇多田に言葉のバトンはつながれていく。

強いお酒に逃げて無理矢理夢の世界に逃げるようなイメージを想起させるフレーズ。

けれど、記憶に囚われている今、その記憶はまるで黒い森のように自分の道を覆い、どこかにあるはずの明るい場所へ繋がる道が見えなくなってしまうのである。

親の存在が、宇多田ヒカルの人生をよくも悪くもここまで導いたということなのだろうか。

そして、親が亡くなってもなお、その記憶は宇多田ヒカルの人生に強く影響を与えているのである。

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2番のKOHHパートについて

ここも宇多田のフレーズを受け、走っている主人公のイメージと、お酒を飲んだイメージがそのまま引き継がれている。

さて、ここもアルバム全体の流れを考えると、「大好きで大嫌いなもう会えないけど、会えたい人」は親のイメージと繋がる。

幸せなのに辛いという言葉の意味もなんとなく想像できよう。

おそらく、宇多田ヒカルのアルバム全体のイメージと絶妙なまでにリンクするから、KOHHの言葉なのに宇多田ヒカルのことまでも歌っているように見えるし、宇多田ヒカルの歌詞とのバトンが綺麗に繋がるのである。

記憶からの逃走と、でもそんなことはできない現実が歌われているように見える。

2番の宇多田パートについて

ここでも、お互いなくなった親のことについて言葉を述べていると思う。

ここでポイントなのは親の記憶についての宇多田の考え方である。

もちろん、親が死ぬまでの間に、自分に色んな影響を与えたと考えているだろうが、ここで大事なのは、3歳までの、ものごころがつくまでの親との記憶についてはなのではないかと思うわけだ。

どういうことか?

人間の性格は物心のつく3歳までで形成されるといわれている。

そして、多くの人は3歳までに一番接する人間は親であると思う。

宇多田もそうだったのだろう。

つまり、自分の意志とは違うところで、自分という人間のアイデンティティが形成されるわけである。

親という人間によって、自分の性格が決められるわけだ。

親が亡くなり、子を持った今になって、なおのことそれを実感しているのかもしれない。

最初から忘却したはずの記憶に、自分という人間の根本が形成されているというわけだ。

これこそが、一番のサビに出てきた「深い森に閉じ込められている」イメージとリンクしているのだと思う。

その森から抜け出すには、より記憶に対して無頓着になるしかない。

だからこそ、記憶というカバンは極力もたないようにして、未知なるステージを向かうとするわけだ。

強いお酒を飲んで寝ても怖い夢となって出てくるかもしれないし、知らず知らずのうちに記憶に自分の道を誘導させられるかもしれない。

でも、そんなことに頭を悩ませても仕方ないのだ。

忘却した記憶すら、自分を形作っているのだから。

どうせ死ぬときは記憶が完全に無になるわけだから、余計な記憶もたずに生きていこう、そんな決意こそが、宇多田ヒカルの本当の意味での過去の記憶との決着のやり方だったのではないかと思う。

つまり、宇多田ヒカルのこのアルバムにおける、ある種の決意表明の歌だったのかもしれない。

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