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岡崎体育の「感情のピクセル」について書いてみたい。

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すんげえかっこいいMVとキャッチ―なメロディー。

岡崎体育っぽくなくて、キレキレで度肝を抜かれたリスナーも多いと思う。

ってことで、今回のMVの構造と歌詞の2点から「感情のピクセル」というものに対して切り込んでみたい。

MVについて

岡崎体育といえば、絶対におさえる必要のある作品は「MUSIC VIDEO」だと思う。

「MUSIC VIDEO」も「感情のピクセル」も監督としてメガホンをとったのは、もはや盟友と呼ぶに等しい、寿司くんやヤバTでお馴染みのコヤマ氏である。

というわけで「感情のピクセル」のMVを分析していくうえで、まずは「MUSIC VIDEO」でネタにした撮影方法をどれだけ用いているのかを考える必要があると思う。

みていきたい。

○が今作に使っている技法で、×が今作では使っていない技法である。

1カメラ目線で歩きながら歌う
⇒×(歩きはしないけど、ギター弾きながら少し動いている)

2急に横からメンバー出てくる
⇒×(今作では横からは出てこない)

3カメラを手で隠して次のカットで場所移動している
⇒×(カメラを手で隠しはしないが、右手はほとんどギターを弾くことはなく、カメラのレンズに対して自己主張する場面が多い)

4倍速になって
⇒○(2番のAメロでバンドメンバーが瞬時に入れ替わるシーンあり)

5スローになって
⇒○(2番のサビが終わって、Cメロで動物たちがスローになるシーンあり)

6コマ撮りになって
⇒○(2番のAメロでバンドメンバーが瞬時に入れ替わるシーンあり)

7モノクロの映像
⇒△(モノクロにはなってないけど、光彩を落とした場所で撮影することで、モノクロ感を出しているカットはあり)

8淡い映像⇒○

9ざらついた映像⇒○

10無意味に分身⇒×

女の子の演出の仕方(今回なら動物?)
1泣かす⇒○(たぶん、ワニさんは泣いてると思う)
2躍らす⇒○
3音楽聴かす⇒×
4窓にもたらせる⇒×
5倒らせる⇒○

11.2分割で男女歩かせて最終的に出会わす⇒×

12.仲いい人とかお世話になった人を別撮りで歌わせる⇒×

13アナログテレビ何台か並べて砂嵐流しとく⇒×

14ラーメン屋の見習いっぽいやつに店の前で落ち込ませる⇒×

15オシャレな夜の街写しとけ⇒×

16光もテキトーにぼかしとけ⇒○

17意味深に果物持っとけ⇒×(トランシーバーは持ってたけど)

18ケーキを顔面にぶつけとけ⇒×

19気に入ってる歌詞を画面いっぱいに貼り付けとけ
⇒○(Don’t give fxxk with meの歌詞が画面に貼り付けてたね!これがお気に入りの歌詞なんだね)

20ビンタされとけ⇒×

21交差点立っとけ⇒×

22オフショットの笑顔が素敵
⇒△(最後のチーターの笑顔をどう捉えるか)

23壊せ⇒×

24燃やせ⇒×

25フェンス越しに儚げな顔
⇒○(ラストのサビ終わりでフェンス登場。案の定、儚げなシーン)

26とりあえず目的もなく浜辺を歩け⇒×

27何らかのテーマをもった漫画家のキャラクター
⇒○(漫画家のキャラクターなのかは知らんけど、キャラクターがたくさん出てることには間違いない)

28外でギター弾いてるけど、電源入ってない
⇒△(外ではないけれど、ギターは弾いているし、そのギターに電源は入っていない。そもそも、岡崎はギターを空弾きすらしていない場面が多い)

29何かを拾って振り返る⇒×

その他、このMVでの特徴的な技法についてみてみよう。

1.本来はギター弾いてるはずの岡崎だが、ショットが変わるたびに、ギターから手を離して、過剰なまでに右手(たまに両手)を動かすことで、画面に主張をしている。

2.照明が効果的に使われている。ステージ上に大量のスモークがたかれているが、それもあわさって画面はロックっぽい緊張感が漂っている。

3.カット数がすごく多い

4.ひとつのカットの中でも常にカメラがよく動ている(且つ、ブレブレのショットが多い。これはコヤマの意図なのか、単に実力の問題なのかは謎であるが。注意深くみればわかるが、撮影している手がプルプルしているため、カメラが揺れていることが多い)

もちろん、あのMVはそもそもワンオクのようなかっこいい系バンドってこんなMVでしょ+「おかあさんといっしょ」っぽいテイストで「おかあさんといっしょ」では絶対に扱わないテーマ描くという、3重の意味で捻じれたテーマを扱った、高度なあるある系MVというふうにとらえることができる。

かっこいいとかっこわるい、緊張と閑話、かわいい動物と殺伐としたテーマ、色んな対比を重ねることで、実に味わい深いMVに仕立て上げたわけだ。

そりゃあ、何度みても飽きないわけである。

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歌詞について

作詞 岡崎体育

重ねた手のひら
風の色はもう見えなくなる
怯えて震える
身体を焼き尽くしていく

もう何もかも信じたくはない
I don’t believe it anymore cause I feel sad
記憶を辿ったって何も変わらないよ

どうぶつさんたちだいしゅうごうだ わいわい
おいでよ ブタさん ウサギさん キツネさんにゾウさん
みんなでたのしく うんぱっぱのぶんぶん
おなかぽんぽんぽんのやっほー
チーターさんはかけっこじゃまけないぞ
過去を消し去るように疾走れ
Don’t give fxxk with me

前半カッコいいのに、後半は動物だって!

そのギャップがウケるわwwwってのが狙いだとは思うが、意外と歌ってるメッセージは通底している。

テレビとかに映る動物のキャラクターは、人間である僕たちのように傷つくとか悲しみとかとは無縁のように見える。

しかし、ぽんぽんと叩いているそのお腹は白く見えるけれど、本当はとても腹黒なんだよ、という話であり、動物だって傷つきもするし悲しみもあるんだよ、というわりと深いテーマを扱っているのだ。

また、動物のキャラクターは建前だらけの社会の暗喩という風にも捉えることができると思う。

建前では「仲良くしましょ」とか「みんな平等」なんて言うけれど、本音ではそんなこと思ってなくて、もっとひどいことを裏ではやってる的な。

だから、Don’t give fxxk with meというクタバレという意味の英語を末尾にもってきて、それをMVの画面いっぱいに貼り付けているのである。

こんな社会、クタバレ的な。

狂いきったイメージと
絶望の隙間に消え落ちていく
零れ落ちた闇雲のアンサー
まだ見つからないまま

風の色はもう見えないけど
前までは見えてた
怖っ

何て?

どうぶつさんたちだいしゅうごうだ わいわい
おいでよ ワニさんもなかまにいれてあげて
みんなでたのしく うんぱっぱのぶんぶん
おなかぽんぽんぽんのやっほー
ワニさんもなかまにいれてあげて

風の色は前まで見えていた、というのは比喩なのかと思いきや、「怖っ」とノリツッコミをするのは岡崎体育らしい。

風の色って、なんやねん?という話ではあるが、子供の頃は見えていたのに年をとると見えなくなるものがある一方、年をとると見えてきてしまうの嫌なものもあるが思う。

例えば、動物さんたちでいえば、子供の頃はあの動物の中に「おっさん」がいるなんて思っておらず、本当に動物の形をした生命体がいると思っていたはずだ。

しかし、知識を得ていくなかで、動物の背中にチャックがあることを知り、あそこから「おっさん」が出入りしているという事実を知ってしまうわけだ。

けれど、まだもう少し彼らが子供ならその「おっさん」は動物と同じように綺麗な心を持っていると思うわけだが、さらに年をとって大人になれば、よりリアルが見えてくる。

動物の着ぐるみに入ってる「おっさん」はただの日雇いのバイトであり、日給1万円のために仕方なく仕事でやってるだけなのだ、みたいな感じで、もっともっと嫌な面が見えてくるわけである。

風の色が具体的に示すものは何かわからないが、子供の頃にしか見えないファンタジーがあるのは間違いないわけであり、それは、着ぐるみのおっさんを本物の動物のキャラクターと思い込むことと似ている。

フタを開ければただのファンタジーなんだけど、昔は確かに「事実」であり、確かに見えていたものこそ「風の色」というわけなのだ。

それは大人からしたら「怖っ」なことなのだが、それを「怖っ」と思ってしまう常識に囚われてしまうことこそが、まさしく「クタバレ」と言いたくなるものの正体でもあるわけだ。

分かち合えない 生き物としてのカテゴライズの壁
乾いた果実も一度乾くともう戻れない

どうぶつさんたちだいしゅうごうだ わいわい
そろそろワニさんもなかまにいれてあげて
みんなでたのしく うんぱっぱのぶんぶん
おなかぽんぽんぽんのやっほー
さすがに気の毒になってくる

思いやりという名の道徳的価値の再認識
ワニさんもなかまにいれてあげて

フェスという現場だってそうである。

ライブキッズとか、ジャニオタとか、若者とか、おっさん系キッズとか、いつの間にか同じ「音楽好き」であっても、それをカテゴライズして、分かち合えない状況を作ってしまう。

乾いた果実=大人の比喩であり、一度年をとって知識を持ったら、サビの歌詞のように、言葉を全て「ひらがな」で認識していた「無知で純粋な子供」に戻ることはできなくなる。

子供から大人にはなれるが、大人から子供には戻れないわけだ。

そこにあるのは「知識」の差なわけであり、大人になるほど「常識」に縛られ、そこからはみ出た行動をする若者は理解不能でただのマナー違反のように見えてしまう。

それが、ますますカテゴライズを生んでしまう。

でも「思いやりという名の道徳的価値」を持てば、ライブキッズだろうがジャニオタだろうが、若者だろうが老害だろうが、知識や常識に差があってもフラットにいることができるし、カテゴライズされながらも手と手を繋ぐ「可能性」が生まれるのだ。

岡崎体育だって、邦ロックシーン、あるいは音楽シーンにおいては「わにさん」のようにカテゴライズからはみ出れた「仲間はずれ」のような存在である。

けれど、岡崎体育はそれでもフェスシーンや音楽シーンに食い込み、この曲を良いと思ったほとんどの人がご存知のように、自分の「居場所」を獲得したわけだ。

それは、岡崎体育の成果という面もあるが、彼のことを理解してくれるファンやヤバT含め、周りの人たちがいたからに成し遂げられたわけで。

常識に囚われた社会において「仲間はずれ」や「いじめ」はある程度仕方ないのかもしれないが、せめておなかをぽんぽんと鳴らすような「音楽の現場」においては、思いやりの心を持って、仲間はずれにしたりカテゴライしたりするのではなく、みんながみんなを分かちかち合えるようにしたらいいのではないか、みたいなメッセージがこの歌には込められているように感じた。

バンドザーマーミロ!!とMVで発言していた岡崎体育が(MVの設定とはいえ)バンドを携えて歌を歌うのは、誰かと一緒にいることの大切さを表現したとも捉えられるし、中指を突き立てていた相手と理解しあって力を合わせれば、こんな俺でもカッコよくなれるんだぜ!みたいなメッセージも込められいるのではないか、というそんなただの深読みな結論。

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