前説

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時たま他の人に文章を寄稿してもらっていて、この記事でも<前説>以降は他の方に書いてもらった文章となる。

書いてもらったアーティストは米津玄師。

いくつかのシングル曲以外の米津玄師の楽曲について書いてもらった文である。

それでは、読んでみてほしい。

どうぞ。

本編

米津玄師のいくつかの楽曲について

ディスコバルーン

ジーッという音とともにフィルムがまわり、ドラムの三連符で 3・2・1 のカウントダウンとともに映像が始まる。なにが繰り広げられるかと思いきや、

『 あなたが嫌いだ 』

このひとことで呆気にとられ、バッサリ切り捨て御免。いきなり恋の幕は下り、エンドロールが流れ始める。あぁ、なんということだ。これは捨てられた側にとっては晴天の霹靂であり、ちょっとやそっとでは立ち上がれないほどの傷となろう。だが、そんなことは知ったことではないと言わんばかりの強気のセリフである。

『 どうせどこへまでも空っぽだ 』

最後の1小節はドラム以外の音はなく、『 空っぽ 』なあなたに心底呆れかえっているのだろう。これまでどれほどあなたに「好きだ」「愛している」と伝えただろうか。なのに、あなたは『 安価なビニール風船 』のように、ふらふらとどこか夢見ごこちで煌びやかな空間を彷徨い、私の言葉を受け取る気もない。そうか。よくわかった。あなたがそんな風に私の気持ちを踏みにじるならばこうしてやる。

『 肥える産廃火を持って 』

産業廃棄物のように捨てられ、燃やされて灰になって消えてしまえばいい。私の前から消えてくれ。もうこれ以上、私の気持ちを無下にしないでくれ。これまではのらりくらりと愛されているという一方的な思い込みの上に胡坐をかいて余裕をかましていたあなた。この言葉によって、見事なまでに一瞬でその馬鹿げた空想は打ち砕かれ、少しの望みもないと知るや慄き慌てふためき狼狽する。それとは対照的に主導権を握った私はこの上なく強くなり、なにかを手に入れたようだ。

『 ちょっと遊んで行こうぜ 』
『 声が西へと抜けていく 』
『 何も知らない夢のまま 死んでいけたら幸せだ 』

太陽は東から昇り、西へ沈むように私の恋ももう終わりだ。再び、昇ることはない。最後の優しさは冒頭のひとことだ。そして、私はまた新たな恋の劇場へと消えていった。コインの表裏のようにひとの心は移ろいやすく、また脆い。そんなことを知らずに、愛された記憶だけをもって死ねたらどれほど幸せだろうか。

「激情」に身を燃やし、灰になるのは 私 なのか あなたなのか?

恋愛の「劇場」に立ち、振り回すのは 私 なのか あなたなのか?

「ディスコバルーン」はかなり難解だと言われている。それはなぜか。

私 と あなた の発言が一定に交互するわけではなく、さらに女性と男性、男性と女性、女性と女性、男性と男性でも歌詞が成り立つ摩訶不思議な世界である。とはいえ、これほどまでに激情型の恋愛をどれほどの人たちが経験しただろうか。恋の駆け引きなどそんな甘っちょろいものではない。生きるか死ぬかの戦いだ。

これはもしかしたら、 音楽家 米津玄師 と 米津玄師を追いかけるひとたちそれぞれ との1対1真っ向勝負の関係性に似ているのではないだろうか。音楽シーンは未来へ向かって留まることなく、日々変化を繰り返している。どちらが「私」「あなた」の立場になっても、また、その時々で入れ替わったとしてもおかしくない。それは彼のつくる音楽を愛し、彼自身を愛し、そして彼を愛する仲間をも愛しているのだから。

「 米津玄師 2020 TOUR HYPE 」

音楽家 米津玄師 と わたしたち の魂の一騎打ちが今まさに始まろうとしている。

メランコリーキッチン

「なにのんびりしてんの?!明日とかそんな悠長なこと言ってないで、今すぐ彼女に逢いに行きなよ!!」

メランコリーキッチンを聴いた米津玄師を愛するひとたちは、ほぼ全員が同じことを言うだろう。それなのに、なんてことだ!明日会え「たら」いいな?おいおい大丈夫か?と友達でもない、家族でもないのに心配になってしまったのは私だけではないはずだ。これを読んでいるあなたもそうでしょう?

教会のパイプオルガンのような、だれかの祈りのようなそんなメロディーが哀しさを誘う。が、一転、なんとも摩訶不思議なポップ感漂う打ち込み音。頭の中に疑問符が次々と浮かぶ。しかし、2番以降の間奏でこのふたつが折り重なり、新たな旋律となって美しく調和し、曲のイメージを牽引するではないか。あまりの展開にイスから転げ落ちそうになった。

『 少し薄味のポテトの中 塩っけ多すぎたパスタの中 』

調味料の加減がわからない=彼女に甘えっぱなしだった=塩っ気は彼の後悔か

『 部屋に残してった甘いチェリーボンボン 無理して焼き上げたタルトタタン 』

甘いお菓子=砂糖が多く使われ、手が込んでいる=彼に対する愛の深さか

ふたりの対照的な不器用さが1番と2番の歌詞で表現されている。

ひとり取り残された彼は任せっきりだった食事を作ってみる。まぁ、味は想像通り、おいしくない。塩分多めは自分の涙と悲しみではないか。

また、彼女はというと、「無理して」と書かれているように料理をあまりしたことがないのかぎこちない。それでも大好きな彼のため、料理本とにらめっこしながらお菓子を作ったのだろう。なんともいじらしい。

よくある恋愛中の小さな諍いのようでもあるが、『 電池の切れたタイマー 』 はどのくらい時間が経過してしまっているのだろうか。怒り狂い、どうやって相手をコテンパンにやってやろうかなどと考えているうちは相手の顔、しぐさ、空気感などはっきりは思い出せない。それなりの時間が経ってようやく冷静になり状況を飲み込めたが、どうしよう。 「ごめん」のひとことがどうしても言えない。あぁ・・・どうしよう。

『 もう1度! 』

成人した男性が、自分で自分を応援しているのだ。それも、「ごめん」と早く言えよ!と。彼女がもう1度笑ってくれるように、頑張れ自分!

あまりのかわいさに卒倒しそうになるじゃないか。どうするんだ、こんな感情・・・。

私やあなたがどこかに置き忘れてきたあの日の甘酸っぱい恋がこの五文字で世界を一気に明るく彩り、こんなにも心揺さぶられるなんて。

音楽家 米津玄師

ニコニコ動画から追いかけ続ける古参も、紅白出場さえ知らないにわかの私をも虜にする。男性的な強さと放っておけない少年のような弱さ、文学的な表現とオチのある文章。絵を描けばこれまた超一流なのだ。彼を知れば知るほど、遅滞性の媚薬のようにジワリジワリと体内に浸透していく。そして、気がつけば24時間 ″米津玄師″ 一色の日々となる。彼に関する注意書きがあるとすればこう書いてあるだろう。

「 米津玄師には中毒性があります。沼にハマって抜けられなくなるまで、また抜けられなくなっても無限リピートでお聴き下さい。 」

『 もう1度! 』

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「百鬼夜行」

そういえば、小学生の頃、夏休みや冬休みの朝10時ごろから始まるアニメが好きだった。「あさりちゃん」「パーマン」それに「かぼちゃワイン」だったような気がする。たまに「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」なんかが差し替えで放送された日は食い入るように見ていたことを思い出した。

″ こういう妖怪、あちこちにいるよなぁ ″

あ!あの人、ぬりかべが前に立ってるから進めないのになぁ

あら!この人は砂かけ婆に砂かけられて、何にも見えなくなっちゃったのか

うわ~!ネズミ男につかまってずる賢い顔してるね

ちょっと変わった小学生だった。目に見えないおばけよりも、生きている人間の方がこわいことを知っていた。みんながキャーキャー怖がっていても「へぇ・・・はいはい。」至って冷静沈着。自分でも苦笑いなこどもなのだから、おとなからすればちっともかわいくなかったと思う。

米津玄師の『 百鬼夜行 』でそんな記憶が蘇った。小さなころの感性はもしかしたら間違っていなかったのかも知れないなと思った。真っ白な絵の具がおとなになるにつれて、自分の気持ちとは関係なく気がつけばグレーになり、グレーがいつの間にか真っ黒になってしまったりする。

『 こんな具合になったのは だれのお陰だろうか 』

本当に誰のお陰でしょうね?と聞きそうになる。いや、聞いたところで正解なんてないのだけれども、それでもどうしてそうなったのか知りたい。もしかしたら、一反木綿にグルグル巻きにされて身も心も動けなくなったのか・・・。

昔のぬりかべや砂かけ婆、ネズミ男なんて優しい妖怪はいなくなった。その代わりに現代の妖怪をあちらこちらで見かける。例えば、駅のホームや車内ではスマホおばけに憑かれてみんな小さな画面をジッと無言で見つめ続ける。必要のない情報まで取りに行って、落ち込むアンテナ棒人間。それに自分の意見と違うものは徹底的に潰しにかかるハンマーハンマー。あぁ、頭が痛くなってきた。身を守る呪文はないのか?

「悪魔くん」は″エロイムエッサイム″ じゃあ、『 百鬼夜行 』はというと、

″カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ″

現代語訳にすると、 ″私は酒に酔ったものです″ だそうだ。

酒に酔って正気でない方が生きやすい世の中になってしまったのか。浴びるほど飲んで、妖怪に「なんかようかい?」なんちゃって冗談でも言ってしまうぐらいへべれけになってしまわないと正気を失ってしまうのかもしれない。ちょっと悲しいけれども、いつの時代もそんなものだろう。みんなが恐れ慄き怖がる妖怪の正体は誰でもない。自分自身の投影なのだから。

『 我らは現代の妖怪だ! 』
『 頓珍漢なことばかり まだ信じている 』

鬼太郎は前髪で右眼は見えない。左眼で世の中を見て、右眼で見えない相手の心を見る。そして両眼でその真実を見抜く。どこかで見たことがある・・・。あなたも見たことがあるでしょう?そうそう、私もね小学生のころ右眼が完全に隠れている鬼太郎ヘアだったのですよ。

『 ああいまさらどうでもええわ 』

筆者紹介

ひかりとかげ(@sibainuwannko3)

どうも、私です。アイコン真っ白でとんでもねぇことを思いついたひとと言われています。

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