小沢健二とSEKAI NO OWARIがコラボした「フクロウの声が聞こえる」。

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この記事では、この歌の歌詞について書いてみたい。

作曲:小沢健二
作詞︰小沢健二

前書き

なぜ小沢とセカオワがコラボしたのか。

これは公式としてネットに上げられている30分ほどの動画をみてもらったらわかるが、小沢がアメリカに行っていた頃から彼らと親交があったからであり、小沢曰く、アメリカにいる間にもっとも遊んだ日本のアーティストはセカオワかもしれない、と答えている。

というわけで、小沢健二が若者ファンも取り込んでやろう、そのダシとしてセカオワを選んだ、というビジネス的な観点ではなく、ある種すごく無邪気な気持ちで、小沢はセカオワをコラボ相手として選んだわけだということ。

まあ、そういう印象付けが既に小沢の計算だと穿ってみることもできるが、このケースにおいては、そういう裏の読み方はあまり意味がないと思う。

当然ながらこの歌はノンタイアップであり、すごく資本主義的ではない、計算からは遠く離れた、限りなく純粋無垢な音楽のように思うし、今作の意義深さはそういう所にあるのかもしれない。

さて、それでは歌詞全体を深読みしていきたいと思う。

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並列される二つの世界

この歌はどこまでも最初から最後まで何か二つのモノを並列されながら、言葉が紡がれていく。

フクロウと大きな魚。

本当と虚構。

好きになることと嫌いになること。

混沌と秩序。

枯葉と枝。

絶望と希望

食べることと寝ること。

孤高と共働……。

もう少しあるわけだが、とにかく、この歌詞では幾つモノ「並列」が提示されていることがわかる。

この並列は、類義の関係性もあれば、対義の関係性も存在している。

そもそも、この歌全体がファンタジーとリアリティーを混ぜ込んだ独特の構造をとっているし、おっさんおばさんの青春とセンチメンタルの対象物である小沢健二と、小学生をはじめとする若者から絶大なる支持を集めるセカオワのコラボという時点で、一つの「並列」が提示されているとも言える。

また、この歌の「僕ら」はおそらく「親と子」という並列の提示だし、僕=息子であり、だから「パパ」という言葉もしれっと出てくるわけだ。

これは、人の親になった小沢ならではの視点だと思うが、不思議な縁で、この歌のリリースのタイミングで、セカオワのさおりも人の親になることが明らかになったので、ここにもまたひとつの「並列」が実現している。

それにしても、この僕という名の息子、何歳なのかはわからないが、語彙力がとんでもないものだ。

共働なんて普通の大人でも出てこないぞ、と思う。

そして、この語彙力もまたポイントのひとつだったりする。

要は、この歌には「クマさん」とか「チョコレートのスープ」というように「子供っぽい言葉」が並べられていながら、普段の日常会話では絶対に使わないような難しい熟語も平気で出てきたりするわけで、言葉のジャンルを「並列」で提示するとともに、そこに融和を生じさせている。

そう。

この並列と融和というのが、この歌の重要なエッセンスなのだ。

ちなみに、この歌の歌詞カードをみると、この曲のポイントが小沢健二により細かく解説されているのだが、歌詞で言えば、「チョコレートのスープは」と「強くなれ」と「泣いたらクマさんを」のフレーズがプッシュされている。

全て「子供っぽい言葉」がプッシュされているのは、ひとつポイントである。

また、サビ前に「おっ、おっ、おっ、おっ」と合いの手?も同じようプッシュされているのだが、個人的にはこれが、どうしてもあえぎ声に聞こえてしまう。

さては、子供っぽいメルヘン世界に、アダルトな夜世界の光景を差し込む作戦であり、これもある種の並列の提示ではないか?と勝手に思ってる。

まあ、それはいい。

大事なのは並列と融和の話だ。

この歌は様々な並列を提示していくが、結局のところ全ての並列は融和していくことが大事だし、いつか全て混ざっていくはずだ、というのがこの歌の主張となるわけだ。

歌の話でいっても、最初は深瀬と小沢のボーカルが別々に進められていく。

しかし、サビになると、二人のボーカルは融和していく(ユニゾンする)展開となっている。

そして、最終的に「はじまり、はじまり」と扉を開き、のフレーズ後には、メンバー全員での「ララララ」の合唱が始まり(全ての声が融和して)、文字通り完全なる融和の始まりが力強く宣告されるわけである。

そして、まさしく文字通り「混沌と秩序が一緒にある世界」が完成するのである。

ところで、なぜ小沢は並列と融和にこだわったのだろうか?

ここからはもはや完全なる推測だが、考えを述べてみたいと思う。

まず、人間は「分ける」ことで世界を認識する生き物である。

「分かる」とは、モノとモノとを分けることで、初めて成り立つ思考なわけだ。

だからこそ、大人になればなるほど、物事を分けがちになってしまい、「一緒とは対極の、何もかも並列していく世界」を創りがちになる。

これは、本来的に正しいことだ。

けれど、今の大人をみていると、分ければ分けるほど不幸になっていってるし、結果、差別やヘイトな感情を生んでしまい、卑しく醜い人間になりがちだったりする。

大人になる=分けるだけの人間、になってしまっては結局幸せにはなれないし、平和とは無縁の世界構築をしてしまうようになる。

子供の視座を持つ=分けることは止めて違うものも一緒にしたり組み合わせたりする想像力、を持つことが今の現代人には大切な視座なのではないか?と提示するわけだ。

そんな子供の視座の代表として、「チョコレートのスープのある場所」という表現を使う。

並列を全て融和させて、混ぜ込んでしまう世界の構築。

それは難しい話ではなく、食べることや眠ることと同じ、生活の話なのだということを力強く主張する。

平たく言えば、世界の見方を変えたら価値観も変わるし、価値観が変われば、さらに世界の見方が変わるよ、という話。

そして、それは食べることや寝ることと同じように、生きていく上でとても大切な考えなんだよ、ということがテーマなのではないか?と僕は感じた次第。

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