SEKAI NO OWARIの「RAIN」の歌詞について書いてみたい。

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雨を比喩に使うことについて

「RAIN」というタイトルの歌はけっこう世に溢れているし、RAINの和訳に当たる「雨」をタイトルに使った歌はもっと多い。

そもそもJ-POPにおいて「雨」というモチーフは多用されがちなのだが、基本的にワンパターンだったりする。

まずは「雨歌あるある」を考えてみたい。

①悲しみの象徴になりやすい

雨が降る=心は悲しみに溢れているという隠喩になりがちで、雨は涙の比喩であることも多い。

つまり、雨をモチーフにした時点で「悲しみ」を歌う歌がすごく多いのだ。

失恋、夢に敗れる、別れ、単純な鬱、ケースは色々あるし、歌詞の末尾では雨が上がって空が晴れる場合もあるが、雨自体に期待される役割は絶対的に「悲しみの象徴」なのである。

②すぐにずぶ濡れになる(なぜか傘を持っていない)

なぜか歌詞中で雨が降ると、登場人物はずぶ濡れになりがちである。

中学生くらいならまだしも、どう考えてもその歌の主人公は30代台のサラリーマンでしょ?って歌でも、わりとずぶ濡れになりがちである。

なぜか傘は持たないし、買おうともしない。

都会が舞台であっても、コンビニで700円払って傘を買おうともしないのである。

なぜなら、基本的に雨は「悲しみのアイコン」であり、その悲しみをよりドラマティックにするために、意味もなく登場人物をずぶ濡れにしたがるのである。

ずぶ濡れ→寒い→身体だけでなく心も、みたいな陳皮な連想をさせがちなのである。

③小雨じゃなくて土砂降りにしがち

先ほどの話ともリンクするが、往々にして雨が降る場合は、小雨ではなく土砂降りであることが多い。

暗黙の掟として、雨の量=悲しみの度合いを示すことが多く、歌のテーマが「大失恋」なんかだと、ほぼ間違いなく雨は土砂降りとなるわけだ。

これは、歌詞だけでなくドラマなんかでもやりがちな演出である。

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このように、歌詞における「雨」の使い方はワンパターンになることが多い。

ここでポイントとなるのは、セカオワの「RAIN」の雨の描き方である。

もちろん、歌詞を読めば、「雨」は悲しみのアイコンとして描いているように見えるし、傘とか涙とか虹とベタベタな雨歌の頻出ワードを惜しげなく使用するわけである。

が、サビになって「雨」に対する風向きが少し変わるのだ。

というのも、この歌はサビで虹が出てくるわけだが、虹の描き方が少し皮肉めいているのである。

ご存知の通り、虹は雨に対する対比であり、希望の象徴として描かれることが多い代物である。

が、この歌はそんな虹(という希望)はいつか消えてしまうものだけど、雨はまた必ず降るし、その雨があるおかげで草木は育つというのである。

この歌も決して雨そのものを「希望の象徴」としては描かない一方で、けれど、そんな雨だって大事だし、雨があるからこそ育つものもあるんだよ、と言っているわけである。

人生という射程で考えれば、雨はとても大事なものだといっているわけだ。

つまり、雨というモチーフを通して、人間の(この映画の主題歌は魔女の話ではあるが)成長について描くわけである。

こういう雨視点って、ありそうでなかったのではないかと思うのだ。

なによりも面白いのは、雨というのは人生にとって必要なものであり、雨があるからこそ育つものがあるのだと言っておきながら、歌の末尾では「そうだ 次の雨の日のために 傘を探しに行こう」で締めくくるところである。

雨歌はすぐにびしょ濡れになりたがることはさっき見た通りだが、この歌は雨を肯定的に描くくせに、濡れようとはしないわけだ。

こういう部分でも、この歌は既存の雨歌に対して明確なアンチテーゼをはっている。

雨は大事なものだけど、濡れるようなものではない(できれば、直接的には関わりたくないもの)であることを述べるわけだ。

雨に濡れるべきものもあるけど(例えば草木)濡れるべきでないものだってある(例えば、僕や君)というわけだ。

雨に対してファンタジー的であるように見せながら、妙なリアルさを伴わせているのだ、この歌詞は。

おそらく、この歌が主題歌となっている映画「メアリと魔女の花」も、そういう映画だからだと思うのだ。

魔女が主人公でありながら、魔法的な要素よりも人間性を押し出した作品になっており、ファンタジーなんだけど、その辺のヒューマンドラマよりもよっぽど人間臭い、という価値観が通底しているわけだ。

映画にもこの歌にも。

結論として、この歌は雨歌に新風を巻き起こす名曲になるのではないかと思う次第。

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