前説

スポンサーリンク

OKOJOの初のフルアルバム「YADOKARI」が個人的にすごく良かった。

そこで、この記事では何がどう良かったのか、簡単な感想を書いていきたい。

本編

勢いではない、純粋なメロディーの美しさ

OKOJOの歌ってシンプルにメロディーが良くて、歌そのものにぐっとくることが多い。

今回のALBUMの始まりは「サイチェン・マイフォーチュン」。

この歌はOKOJOの楽曲の中でも比較的疾走感がある一曲だと思う。

だけれど、複雑なリズムフックだったり、サウンドの飛び道具で魅了していく歌、というよりはメロディーそのもので聴き惚れさせてしまう印象を受ける。

まつしたの甘さと力強さを兼ね備えてボーカルが、メロディーの美しさを際立たせていく。

「ええんやけど」は、よりメロディーの美しさだったり、歌そのものの訴求力を強めた感じがして、ぐっとくる。

自分たちが持つこだわりを研ぎ澄ませた感じがして、個人的にとても好きな歌である。

メロディーが際立つということは、装いとしてはシンプルであることを意味するわけで、様々な形で個性を際立たせる今のバンドシーンにおいて地味な印象を与える恐れだってある。

でも、OKOJOの歌って、言葉にするとたしかにシンプルで素朴なものになってしまうんだけど、いつだってOKOJOにしかない刺激に包まれているのだ。

<サイケデリック>みたいな、固有名詞で表現しやすい特徴的なサウンドがあるわけではない。

ダンスを誘発するような過剰なビートアプローチをするわけでもない。

ただし、歌そのものの良さを鋭くさせる、研ぎ澄まされた鮮やかな音が広がってる。

だからこそ、少しずつ歌が身体の中に染み込んでいくような奥深さを感じるのである。

実質アルバムのタイトルになっている「ヤドカリ」も素朴でしっとりとしたミディアムナンバーである。

アルバムのひとつのハイライトになっている「おばさんになっても」も感動的なバラードである。

そして、どちらの楽曲も圧倒的なメロディーの美しさにぐっと惹き込まれるのだ。

そういえば、OKOJOの楽曲の多くを作曲をしているのは、ベース/ボーカルのまつしたである。

「お湯を注いで3分間待てば君が蓋を開け出てきてくれたらいいのに」のような爽快感のあるナンバーを生み出したかと思えば、「ドライソケット」のようにシンプルで言葉がすーっと胸に入ってくる切なげなナンバーも生み出す。

あえて共通点をあげるとすれば、どの歌も鼻歌でも歌えちゃいそうなくらいに、メロディーがしっかりしているところ。

弾き語りでも映えそうな、歌の土台がしっかりと楽曲が「YADOKARI」には揃っているのである。

そう。

まつしたの生み出す楽曲の数々に惹き込まれていくわけだ。

ただし、「YADOKARI」を聴いていると、まつしたのソングライティングだけが光っているわけではないことに気づく。

これは色んな意味で言えることなんだけど、ソングライティング、という話でいえば、でんでんの生み出す楽曲もさらにぐっとくることに気づくのである。

クレジットをみると、「最低なラブソング」や「おばさんになっても」といったアルバムの中で強い存在感を示す楽曲では、でんでんの名前が刻印されていることに気づく。

そうなのだ。

でんでんのソングライティングも炸裂していることに気づくわけだ。

この辺りの、それぞれの得意技みたいなものが良い感じに混じり合っているのも、このアルバムがぐっとくるポイントなのではないかと思っている。

あと、アルバムの感想として特筆したいのが、全体的な絶妙なつるっと感。

とにかくOKOJOの歌はどの歌も耳馴染みが良くて、アルバムを通して聴いても全然疲れないのである。

ま?????!!

アルバム、もう終わったん!!!???????

んじゃあ、もう一回聴こう!!!!

そんな気持ちにさせられるのだ。

これはメロディーの素晴らしさと、サウンドの洗練具合が綺麗にハマっているからだと思う。

ヤマトのシャープかつ安定感のあるリズムメイクがあって、時にアグレッシブに時にしっとり楽曲を盛り立てていくでんでんのギター・プレイがあって、まつしたの情感こもったクールかつ表情豊かなボーカルがあるからこそ、「YADOKARI」というアルバムは圧倒的な輝きを放つのだ。

余計なものを削ぎ落とし、自分たちの「良い」と思う部分を研ぎ澄ませてきたOKOJOの楽曲だからこその魅力なのではないかと思っている。

スポンサーリンク

言葉にぐっとくる

鼻歌でも歌えるくらいの美しいメロディー、が意味するところはメロディーに載っている言葉がしっかり耳に入ってくる、ということも意味する。

そのため、このアルバムはじっくりと言葉と向き合って聴くことができて、そこも大きな魅力となっている。

アルバム全体で言えば、切なかったりキュンときそうな恋愛ソングが多い印象を受ける。

でも、単純な恋愛ソングなのかといえば、そうも言いきれいないのかなーと聴くたびに勝手に思っていて。

なんというか、歌に出てくる「僕」「私」「君」「あなた」に、色んなものを重ねられるのではないかと思ってしまうのである。

例えば、「もううんざりだ」。

この歌は恋人にうんざりしつつも、その恋人から離れられない感情を歌っているようにも聞こえる・・・・

が、<うんざり>の感情の持ち主にOKOJOの物語を重ねられる気もするのだ。

昨今、どうしてもバンドは<バズる>とか<音楽の動画の再生数>とか数字に意識して活動することが多い。

けれど、そういう数字ありきの価値観に対して<うんざり>して、そこから距離を置いていく意志表示を、恋愛という要素に置き換えながら表現している歌にも聴こえるわけだ。

あるいは、「それでも僕ば歌にする」だって、シンプル恋愛模様を歌った歌のようにも聞こえるけれど、言葉の捉え方によってはバンドからファンに向けてある種の<本音>を語る歌のようにも聴こえる。

まあ、歌詞が持つ本当の意味は歌を作った本人にしかわからないわけだけど、重要なのは、言葉が持つ意味の合否ではない。

ゆっくりとじっくりと言葉に向き合いながら音楽を聴ける楽曲構造そのものが素敵だと思うわけだ。

何気ないフレーズからも色んな意味を導けるというか、色んな想像を喚起させてくれるというか。

そういう余白みたいなものが作品をより魅力的なものにしているように思うわけだ。

じっと、ゆっくりと、食べ物を咀嚼して味わうような向き合い方ができるアルバムだと思うわけである。

こういう世の中だからこそ、即効性ではなくジワジワ感みたいなものを大事にしているこのアルバムが良いなーと思うわけである。

フルアルバムという尺でOKOJOの作品と向き合って、改めてOKOJOのそういう魅力に気づいたがするのだ。

そういえば、「YADOKARI」という言葉のチョイスも良い。

もし、このアルバムが「HOME」みたいなスケールにしてしまうと、ずっとそのアルバムが原点なのかよーみたいな感になってしまうし、もっと軽い言葉だと時代の流れとともにすぐに忘れられてしまう感のあるスケールになってしまう。

そう考えたとき、YADOKARI、という言葉の収まり具合が個人的に良いなあと思うのだ。

「YADOKARI」だと、今は間違いなく一番の<家>なんだけど、でもやがてはそこから巣立っていく未来みたいなものも残している気がするから。

あるいは、ネットだったりライブだったり色んな居場所がある中での、音源というひとつの居場所、みたいな感もあって、<ひとつの定住>ではなく、<やがては変わるけれど、今はここがとても大切である>感が言葉の中で上手く表現できているんじゃないかなあーなんて思うのだ。

いやまあ、自分で書いていて何が言いたいのかわかんなくなってしまったんだけれども。

まとめ

何にしてもどの曲もぐっとくる、アルバムとしての聴き心地がとても良いアルバムだと思う。

それが「YADOKARI」というアルバムの大きな魅力であるということ。

ちなみに、個人的には「それでも僕は歌にする」のイントロが一番好きだったりするの巻。

関連記事:今話題のOKOJOというバンドについて

スポンサーリンク

LINEで送る
Pocket