米津玄師の「POP SONG」にノックアウトされた果て

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よく売れたことでタイアップがつくようになったアーティストを指差して<売れ線に走った>と形容することがある。

2022年になって存在感を示しているアーティストに対しても、そういう言葉を投げかける例は、よくみる。

確かにどんなアーティストでも、音楽を届ける対象を変えてきたなーと思うフェーズはある。

で、その範囲を広げることで、よりわかりやすさを志向するということは、よくあると思う。

どうしても、売れる音楽のパターンというのは、ある程度決めっているから。

しかもタイアップという企業案件の中では、そのパターンとやらが重要になる。

自分とファンだけのものだった音楽は、それ以上の人たちのものにもなってしまうから。

そういう過程の中で、どうしてもわかりやすさにコミットするケースは多くなるわけだ。

この<わかりやすさ>を指さして、<ポップになった>という形容することがよくある。

なんなら、音楽におけるポップという言葉は、=大衆受けを狙ったわかりやすさを作品、ということを意味する言葉として使わることもあるわけだ。

だが、そんな方式はぶっ壊す大衆的な人気を誇るアーティストもいて。

こういうアーティストの場合、ポップという言葉に対する自覚性が、前述のものとまったく異なっているのだ。

米津玄師は、そんなアーティストの代表であろう。

いや、米津玄師がポップという言葉に対してどういうつもりかは知らんし、別にそんなことは考えていないかもしれないけれどね。

まあ、少なくとも、自分はそんなことを思っちゃうわけだ。

米津玄師の「POP SONG」の話

そんな米津玄師は、「POP SONG」という音楽を生み出した。

ある意味では米津玄師色が全開で、でもまったく米津玄師の焼き直しになっていない快作。

米津玄師っぽい(という言い方が正しいかはわからないが)アーティストはたくさん出てきたが、その頃には米津玄師はあの頃の米津玄師とはまったく違う美学の山に登っていることを実感させる作品である。

さて。

「POP SONG」という名前でリリースされた、米津玄師の新曲は、たくさんの面白さに満ちている。

何よりも思うのは、いわゆる<ポップな歌>とはまた違った手触りで音楽が進行しているということ。

いや、米津玄師の作家性を踏まえてみると、「POP SONG」は必ずしも尖っているわけではないのかもしれない。

過去の曲を聴いてみても、もっと「なんじゃこりゃあ・・・!!!」な作品はあった。

そういった尖った曲と比較すると、わりと収まるべきところに収まっている一曲とも言えるかもしれない。

でも、ゴリゴリにタイアップがついている楽曲で、届ける対象も<億>の単位を想定するレベルのアーティストの新曲が、この手触りというのはやっぱり面白い。

米津玄師の提示するPOPがこれなのだとしたら、やっぱりゾクゾクがとまらんよなーと思うわけである。

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「POP SONG」の魅力

音の鳴らし方。

その音の差し込み方。

ユーモアと作家性の織り込ませ方。

そのどれもが刺激的で、不思議な響きを与えてくるのだ。

米津玄師の歌って、様々な音が鳴っている分、本来的にはけっこうガチャガチャしていると思う。

管楽器の音がなったかと思えば、急にその音を遮断させる。

表になった音の裏側で、まったく違う旋律を音が鳴っていることに気づく・・・というのもよくある。

でも、不思議とやかましさは感じなくて。

その音楽に過剰さは感じることなく、気がつけば心地よい音の中に身を沈めていることに気づくわけだ。

「POP SONG」って、米津玄師ならではのキャッチーさと中毒性が内包している。

そういう意味でのポップさも楽曲に宿っている。

・・・・んだけど、一聴して、その音楽に潜めた魅力がすぐに伝わるようなわかりやすさはなくて。

というよりも、上っ面だけでも楽しめる音楽なんだけど、掘ることで見える楽しさも音楽の中に内包している・・・とでも言えばいいだろうか。

本当の意味で、その音楽をよりたくさんの人に届けようとしているからこそ、上も下、も音楽的な魅力が炸裂しているのだろう。

わかりやすさだけを優先したあまり、すぐに飽きられてしまう音楽ではなくて。

作家性を生贄に捧げたポップになるのではなくて。

米津玄師ならではの作家性が際立つ楽曲だからこそ、本当の意味で<大衆>にその魅力が届けていて、本当の意味で<POP>が溢れていることに実感するわけだ。

この辺りの絶妙なバランス感は米津玄師だからこそだよなーと思うし、またさらなる境地にたどり着いたことに実感する。

なお、「POP SONG」はMVの美しさも半端なくて。

米津玄師のダンスも美しくて。

躍動感があるのに、柔和な感じもあって。

男らしさとか、女らしさといった要素すらも超越する(そもそもそういう言葉はナンセンスだと思うが)ダンスを披露していて、そういう意味でもPOPとして然るべき輝きを放っているように思うのだ。

まとめ

新曲をリリースするたびに、高くなりすぎたはずのハードルを飛び越えていく米津玄師の音楽。

もちろん、好き嫌いはあると思うんだけど、そういうのを差し引いた際に残る圧倒的な<すげえ・・・>の手触り。

ノックアウトされた果てにたどり着いたのは、そんな何とも言えない感動だったりする、そんな次第。

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