Twitterで音垢なるものをやっていると、知識の波に忙殺されることがある。

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自分の好きなものを好きな人同士で共有したい。

そんな思いで始めたはずの趣味垢が、良くも悪くも自分の生活を塗り潰すようになってしまう。

それは時間だけの話ではないと思う。

例えば、別に誰かと比べているわけじゃないけれど、沢山の知識が怒涛のごとく流れてくるから、みんなとその知識を共有しないといけないと思うようになるから、必死に必死に「最新」の情報を追いかけるようになってしまう。

そこに忙殺されるそんな感覚。

好きだから追いかけていただけのはずなのに、追いかけることそのものが目的になってしまうような感覚。

別に好きなときに好きに聴けばいいはずの新譜を急いで聴いてみたり、別に好きなときに読めばいいはずの好きなバンドを特集している雑誌を必死に読んでみたり。

普通に生活していたらそこまで必死に「情報を取りに行く」ってことをしなかったはずなのに、いつの間に誰かに足並みを揃えるように「最新」の情報を取りに行くようになる、そんな生活。

もちろん、それはそれで楽しい。

けれど、たまに思う。

なんだか、そんなサイクルに疲れたなって。

音垢の人のなかには、そんな人がいるんじゃないかなーと思うのだ。

さらに、そこから炎上するとかしないとか、そういう話をすれば、さらに様相はややこしくなる。

好きなものを好きな人同士で、それのことが好きだよね、って気持ちを共有したいから始めただけのはずなのに、好きなもの同士でいがみ合ったりもする。

そんな悲しさもある。

好きなものですら、接し方が過剰になれば、それはしんどいに変わってしまうわけだ。

好きであることに「頑張り」が生まれてしまうと、それはある種の疲労になってしまう。

やがて、自分の「好き」という感情は、少しずつ表情を変えてしまうのだ。

SNSは、あまりにも広いところまで見渡せすぎてしまうため、そんな逆説的なことが往々にして起こってしまう。

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そんなとき、どうしたらいいのか?

僕は一般的な同世代よりは、たくさんの音楽を聴いてきたんじゃないかなーと思う。

けれど、幸い、その道中にしんどいと感じたことはほとんどない。

なぜなら、自分が好きな範囲でしか好きなものを追いかけてこなかったから。

追うことそのものがメインにならないようにしてきたからかなーと思うのだ。

雑誌は読みたい気分じゃないから別にいいやー。あのアーティストの新譜出てるけど、今は気分じゃないからまあいいやー。

そんな感じで、適度にスルーしてきた感覚がすごくある。

追うことそのものを「頑張る」ことは、しなかったわけだ。

思えば、ブログの更新だって「新曲が出たらすぐに更新しなきゃ!」みたいな使命感でもし動かしていたとしたら、あっという間に自分のしんどいが上回って、ブログなんてやめていたと思う。

自分の「好き」に正直でいれるままに、書きたいことを書いて、更新したいときに更新してきたから、続けられたのかなーなんて思うのだ。

これが仕事だったら話は違う。

好きな仕事だとしても「頑張る」を使って続けないといけないこともあるだろう。

僕がブログを「趣味」という言い切るのは、そういう要素が大きかったりする。

ほんと、現代って、気がつけば、簡単に情報の波に飲まれてしまう。

好きなもののことですら、追いかけることにあまりに必死になって、忙殺されてしまうことがよくある。

情報を追いかけることまで、他人のことを気にしても仕方がない。

もしなんだか疲れたなーってなるときは、人のことなんて完全に忘れて、一人でポケ〜っとしたらいいんだよ、なんて思う。

アレが正しい、アレを抑えないといけない。

そんなことばかり考えてしんどくなるなら、無視したらいいのだ。

もしなんだか音楽が好きでいる自分に疲れたなーなんてことを思うんなら、あえて音楽と離れまり、あえて能動的に情報を取りに行かないようにしたら、結果的に、それを長いこと好きでいれる秘訣になるのかなーなんて思ったりするのだ。

そんな自分は恥ずかしいことに、30歳になってもまだ音楽なんてものを能動的に聴き続けている。

そして、不思議なことに今もそれなりに音楽のことが好きなので、これからも付かず離れずな距離感で音楽のことを聴くんだろうなーなんて思う。

趣味なんて、それくらいでいいんだよ。

自分の「好き」が一番だし、そこに何よりも正直であるべきなのだ。

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