オタクになりたがる非オタクな人たち

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6月9日はロックの日、らしい。

ということで、このブログでもロックに絡めた何かしらの記事をしたためようかと思った。

んだけど、今年はロックという言葉よりも取り上げたいワードがあったので、こちらを取り上げようと思う。

<オタク>というワードである。

というのも、近年、エンタメ好きな方々はオタクになることを憧れているらしい。

そういうことを書いている記事を最近読んだのだ。

何をもってオタクというのかはわからないし、きっと世代ごとにオタクの意味が変容しているとは思う。

しかし、憧れの対象として<オタク>があるということは、どうやら確かなようなのである。

マウントをとるための知識量

おそらく、憧れの対象としての<オタク>というのは、その分野において知識とかが凄い人、くらいのニュアンスなのだと思う。

そのため、アニメオタクになる人は、早回しで作品をみることで量を稼いだりする・・・なんて話をきく。

そして、量を消化するからこそ、その分野である種の権威性が生まれたり、切れ味のあるアウトプットすることができて、周りから評価されるのだとか云々カンヌン。

確かにSNS社会になることで、<知識量>におけるマウントの取り合いは激化している印象を受けるし、マウントがとれないほどの知識量を持っている人は崇められるという構図もあるような気がする。

そういう人を指差して<オタク>と形容するのだとしたら、まあなりたい立ち位置に思われることも納得な気もする。

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オタクになる意味

ただ、そういう言説をみると思うんだけど、みんな、人のことを意識しすぎなのではないか?と思ってしまうのである。

なんというか、<オタクになりたい>の根源にある思いって、その分野の人からバカにされたくないという思いだったり、尊敬されてみられたいという見栄なのではないか、と思うわけだ。

もっと言ってしまえば、みんなにちやほやされたい、という思いが見え隠れするわけである。

まあ、別にちやほやされたいなら、それはそれでいいと思う。

誰にだって承認欲求はあるし、その欲求自体は別に悪いことでもないと思う。

でも、自分の好きな分野において、気がついたらそれしかなくなくっているのだとしたら、それは悲しいことだと思う。

自分がその分野が好きで、のめり込んでいる間に知識量が増えた結果の<オタク>なのだとしたら、きっとその知識も素敵な輝きに満ちると思う。

んだけど、単純にちやほやされたいという思いだけで集めた知識なのだとしたら、それはちょっと微妙なのかなあ・・・と思うわけだ。

自分がそれを好き、という自分に向いた結果の知識なのか、他人に一目置かれたい、という他人に向いた結果の知識なのかによって、その色合いが変わるというか。

そういえば、自分はブログをやっているので、たまに自分もブログをやりたいです!!!やり方教えて下さい!!!というメッセージをくれる人がいるのだ。

そうやって声をかけてくれるのは嬉しいし、そういう気持ちならばぜひお応えしたいとは思うんだけど、90%以上の確率でそういう人は教えてもやらないし、やったとしても続かないのである。

で。

そういう続かない人ってきっとやっても全然読んでくれない、読んでくれているような手応えを感じない・・・というのが理由なような気がしてしまうのである。

自分はブログをはじめて7年目だけど、自分と同じくらいの時期にブログをはじめた人は、ほぼほぼ理由をつけたりつけなかったりで、そのブログを更新するのをやめてしまっている。

 

まあ、<続ける>というの所業は罪深いもので、<続ける>を選択してしまうと、本来だったらもっと他のことを選択できたかもしれない可能性を潰してしまうわけだから、続けたいことがよっぽど続けたいか、続けなくてはならない理由があるのでなければ、無理にそれを続けないので、他のことを選択できる可能性にどんどんベッドした方がいいとは思う。

 

んだけど、まあ、すぐにそれをやめちゃうと、むーんと、思わなくもないというかなんというか。

 

で。

 

全員が全員、そうというわけではないのだろうけれど、きっとこういう人は書くことそのものだったり、思ったこと・感じたことを言葉にすることが好き、というよりも他人に反応をもらうことの方がきっと好きだからこそ、なかなか反応がもらえない実情にやる気をなくし、どこかのタイミングで続けることをやめるのかなーなんてことを思ってしまうわけである。

 

いや、もちろん、全員が全員とは思わないけどね。

 

口先だけのクリエイターの卵が行動を起こさずにいつまでも<卵>のままでいるのだって、おうおうにしてそういうパターンのことが多いし、伸びるやつ・結果をだすやつは、自分が努力しているということすら気づかずに、他人においては圧倒的な努力を、かる〜く継続して成し遂げてしまうヤバさがあるのでる。

 

音楽においても、<仕事>になってからはともかく、その前の段階から<音楽をやること>そのものを努力と思ってしまっているやつは、きっと<音楽をやること>くらいは努力と思わずして、相当なレベルで長い時間、没頭を続けるやつに敵うことなんてないのだと思う。

 

そして、そういうやつを指差して、人は<才能がある>と形容することになるのだと思う。

 

なので、努力しないとその分野で頑張れないやつは、さっさと努力しないと続けられないことを続けることはやめて、違う<続けること>にベッドしてしまった方がきっといいんだよなーなんてことを思ってしまうわけだ。

 

・・・話がずれた。

 

何が言いたいかというと、せめて自分の好きなものくらいは<自分が好きだから>という動機を優先して選んだ方がいいし、オタクになることだって、それを優先した結果に行き着くものの方が素敵なのではないか、なんてことをぼんやりと思うわけである。

 

まあ、自分はオタクじゃないので、よくわからんけどね。

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