前説

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例えば、バンドの作品を指差して、この作品はアート的とか、芸術的、と表現することがある。

おおよそ、ここでいうアートとは「聴覚的なだけではなく、視覚的な表現が優れている」という意味合いを指していることが多いように思う。

けれど、「アート的」とは必ずしも、視覚的に優れているものだけを指すわけではないかと思うのだ。

じゃあ一体、どういうものを「アート的」というのか。

この記事では、そのことについて少しだけ考えてみたいと思う。

本編

こういう抽象的なワードを取り扱う場合、まずは対比となる概念と比べて考えると物事が捉えやすくなる。

そこで、アートとか芸術への対比として、なにか言葉を並べてみたい。

アートとエンタメ

アートの対比として、エンタメというものを置いたとき、どこに大きな違いが見えてくるだろうか?

例えば、エンタメというのは人を喜ばせることが目標であることが多い。

笑わせたり、感動させたりと、人に働きかけることを目標とすることが多い。

一方、アートはそれそのもので「他人にこのように働きかける」という目標を持っていない。

いや、働きかけていない、と言えば語弊があるけれど、ひとつの回答を得るための働きかけをしていることは少ない。

どちらかというと、様々な考えを巡らせるのがアート的と言えるのではないだろうか。

作品に「答え」などはなく、むしろ受け手に新たな「問い」を与えることこそがアート的だと思うのだ。

よく芸術作品をみて「何が言いたいかよくわからん」という反応があるけれど、あれってとても大事なことで、アートにもしメッセージがあるとしたら、「おまえは何を思う?」がベースにあると思うのだ。

その結果として、「何も思わない」が受け手に対する答えだとしても、それは全然間違いじゃないと思うのである(もちろん、ここで色んな考えを見出す方が楽しいとは思うけども。

バンド作品においても、ひとつの作品でひとつのメッセージしか読み取れないものもあれば、色んな解釈をすることができる作品も多い。

例えば、スピッツの「青い車」は爽やかな恋愛ソング、というふうに捉えることもできれば、自殺を行うよしている人の歌、という捉え方もできる。

ここで大事なのは、正解がこちら、ということではなく、ひとつの歌を通して様々な解釈をすることができるということ、そのものなのである。

同じ恋愛ソングでも、多様な恋愛を想像することができるOfficial髭男dism の「Pretender」だって、そういう意味ではすごくアート的な作品といえることもできる。・

「恋」というキーワードから様々な“読み”をすることができる星野源のこの歌も、アート的な思考から作られた歌なのではないかと思うのだ。

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正しいものはひとつじゃない

今の世の中はすぐに白黒をつけたがる世の中である。

でも、本当は世の中にある物事や価値観は簡単に白黒つけることができなかったりするのだ。

これは作品に対する需要でも同じでも同じことが言えるのである。

作品が明確な狙いを持って、その狙い通りに受け手に揺さぶりを与えることが「エンタメ的」であるならば、多様な考えをめぐらせ人の数だけ意見や捉え方が割れてしまうような作品は、「アート的」であると言えるのではないだろうか。

アートとは?

作品を捉えるうえでの重要な考え方として、作者の考え、という発想がある。

要は作り手が発した言葉が“正解”であるという思想である。

もちろん、作品を捉えるうえで作り手の言葉は重要な意味を持つ。

でも、どんな作品でも受け手にボールがわたり、そこで考えを巡らせたときにはじめて作品って完結するものだと思うのだ。

そして、ここでいう受け手の解釈は、知識をフル動員させて作者の考えを知ったうえで考えるものであってもいいし、直感だけで意見を述べたって間違いではないということなのだ。

年を取ればとるほど、ついついマウントを取ってしまう音楽リスナーって多いけれど、知識を使ってうえでの判定だろうが、直感で導きだしたものだろうが、そこの捉え方に上も下もないのだ。

そして、それは作り手の言葉であったとしても同じなのだということ。

もし、仮に「良い受け取り方」があるのだとしたら、ひとつの作品を通して様々な捉え方をして、かつ自分とは違う価値観でも面白がれることなのではないかなーと思うのである。

で、そういう態度をとるためにはある程度いろんな音楽を聴いている方が便利だし、色んな気づきを持てるので、色々と掘ってみると面白いんじゃないかなーというのが個人的な意見なのである。

便所でもアートになる意味

ところで、バンドと一口にいっても、ポップなバンドもいれば、パンクなバンドもいたりする。

アートも同じように、写実的な絵の作品もあれば、便所を置いただけで「作品」として展示されているものもある。

写実的な絵がアートであるのはなんとなく理解できる人も多いだろう。

でも、ピカソみたいな絵がなんでアートなのか、と思う人もいるし、挙げ句、便所がアートってどういうことってなると思うのだ。

上記の理由は、規制価値観に対するアンチテーゼ、というのが答えとなる。

つまり、ピカソがやたらと変な絵を書くようになったのは、それまでの絵がひとつの視点からみたものであったからであり、それがリアルで“良い芸術“とされていたからだ。

でも、ピカソはその価値観を乗り換えたいと考えて、多視点で絵を書くようになり、独特の画風になったという背景がある。

あるいは、便所そのものがアートになったのは、アート=美しいもの、という価値観を乗り越えようとした結果だった。

つまり、汚いものの象徴である便器を「アート」と名付けることで、アートにおいて当たり前となっている価値すら破壊してしまうという魂胆があったわけだ。

これって、ロックとかパンクの成り立ちにも似ていると思うのだ。

もともとのルーツをたどれば、ロックやパンクは既成の音楽に対するアンチテーゼの意味合いが強かった。

音楽ってこういうものだよねーという当たり前に対して、それを破壊してしまう強さと可能性を秘めていたわけである。

でも、いつの間にかロックというものそのものが「当たり前」の側になってしまったし、価値観という部分においては保守的な人が増えた気がするのだ。

別にそれが悪いこととは思わないけれど、自分にとって当たり前と思っていることって実は当たり前といえるわけではないのではないか、という考えの余白くらいはあってもいいのではないかなーと思っている。

例えば、バンドにおいてギターはいるのは当然だと考える人が多い。

でも、ギターがいないバンドだってアリじゃないか、という考えだってあって然るべきなのではないか、みたいな話である。

そして、こういう新たな眼差しを与えることこそが、ある種アート的でもあるのだ、ということは改めてここで記しておけたらなーと思うのである。

まとめ

というわけで、アートとバンドについての雑考をなんとなく書いてみました。

まあ、ここに書いているのは正解というよりもこんな考え方もあるんだよなーという話。

改めて自分の好きな音楽を違った角度で捉え直してみたら面白いかもよーという、そういう話である。

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