音楽がサブスク化することの功罪

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一般的な傾向として、最近、ひとつのコンテンツに対する<接触度>というのが下がっていると思う。

例えば、アルバムという単位で音楽を聴くことがなくなり、楽曲単位でしか音楽を聴かない、というのは<接触度>が下がっているひとつのトピックといえよう。

でも、楽曲ひとつをしっかり聴いているならまだいい方で、イントロは不要だといって飛ばす=ボーカルがあるところしか聴かない、というような視聴態度を取る人もいれば、Tiktokのようにひとつの楽曲のサビだけしか音楽として触れないというケースも多くなる。

そう。

どんどん、作品に対する<接触度>は下がっていき、部分の部分にだけ触れて満足してしまう人が増えているのである。

動画コンテンツにおいても、同じことがいえよう。

例えば、映画やドキュメンタリーのような長尺のコンテンツを長尺のままに楽しむ人、というのは特定の界隈だけの楽しみになりつつある。

再生数にコミットしたYouTube動画の多くは、なるべく短くしていき、<喋る>以外の部分を削ぎ落としたがちである。

少なくとも、間とかそういう部分を楽しむような動画がYouTubeにアップされて、大きな話題を呼ぶのはまれといえよう。

でも、気がつくと、短く、刺激的に編集されたはずのYouTubeの動画一本を観る人すらまれという事態が起きつつある。

例えば、切り抜き動画が人気を博しているのがそのひとつの現れといえよう。

要は、コンテンツに触れる上で、あの尺で十分と思っている人が一定数いるからこそ、切り抜き動画が大きなアクセス数を集めているわけだ。

TikTokのようなショート動画が大きな話題を集めるのもそういう背景だし、動画を扱うメディアのほとんどがそういう方向に舵を切っているのが何よりの現れ。

現代人は時間に対する感覚が変わったからこそ、タダで触れることができる情報がたくさん増えたからこそ、ひとつのコンテンツにおける接触度が減ってきたといえそうである。

もちろん、世代や界隈によっては、そんなことはないという人もいるだろうが、敷衍した眼差しでみると、そういう需要態度になりつつある人が増えているの
は、確かだ。

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時間と面白さの比例

ただ、コンテンツに置き換えたとき、それで果たして面白さを十全に味わえるのか、という指摘があるように思う。

というのも、音楽であれ映像であれ、短縮でコンテンツに触れようとするとき、そのコンテンツは<情報>として扱っているような気がしてならないのだ。

そりゃあ、情報を摂取するだけなら、短い時間で吸収した方が<生産的>といえると思う。

でも、情報を情報のままにして、たどり着けるワクワクとかドキドキって限界値があるように思う。

そのコンテンツを情報として見るのではなく、ワクワクとかドキドキを得るためのものとして考えたとき、逆に短時間で情報を得ることに勿体ないように思うわけだ。

好きなアーティストが待望の新曲をリリースしたとき、つまみ食い的に聴くよりも、時間をかけてその作品を昇華した方がワクワクする。

そのことを知っている人であれば、音楽を聴くうえで、生産的かどうかなんてことは脇において、<あえて>時間をかけてその作品を楽しむことを選ぶ。

そんな人が多いように思うわけだ。

<楽曲を聴く>という単位で切り分けた場合だって、サビだけ聴く場合と、イントロからしっかり聴いてたどり着くサビを聴く場合では、サビの高揚感に違いがあるように思う(少なくとも、自分は)。

そもそも、両者の場合、きっと音楽に求めているワクワクの総量がそもそも違うんだろうなーと思うわけだ。

良いか悪いとか。

正しいとか正しくないとかじゃない。

時間をかけるからこそたどり着けるワクワクがあることを知っている人は、そこに対する躊躇がないわけだ。

そして、そういう所(時間をかけたからこそたどり着く境地)にこそ作品が持つ面白さは大きく宿っていたりする。

そんなふうに思うのである。

話は少し変わってしまうが、漫画の「ワンピース」がとある<ネタバレ>により大きな話題を呼んだ。

ここではその<ネタバレ>自体には触れないが、これだって結局のところ、時間をかけて生み出したコンテンツだからこそ到達できる興奮があったといえるし、本当の意味でその<ネタバレ>にワクワクできている人って、きっとそれ相応の時間を「ワンピース」に費やしてきた人だからこそのように思うわけだ。

かけた時間の総量と、コンテンツみせるここぞのワクワクは、比例する。

だからこそ、コンテンツって時間をかけた方が面白いんだぜ、ってその沼に浸かっている人は言いがちだって思うのだ。

情報として接しないことで得られる興奮が、音楽にも映像にも宿っている。

そんなふうに思うのである。

まとめ

音楽がサブスク化することの功罪について考えてみたとき、サブスク化するとその音楽を<情報>として扱う人が増えるから・・・ということはあるのかなーとぼんやりと思った。

しかも、そういう層がマジョリティになることで、好きだったアーティストの態度が変わることだってあるし、ライブなどの現場の空気が変わることもあるからなーなんてことも思った。

いずれにしても、自分がコントロールできないことに関しては、どうしようもないといえよう。

でも、その作品に投じた時間はきっとかけがえのないものだし、そういう時間のかけ方をした人じゃないと得られない感動って、間違いなくあるんだよなーなんてこともふと思ったのである。

そんな感じの、特に落ちのない、そんな話。

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