前説

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昔はわりと人の音楽ブログを読むこともあったんだけど、最近は人の音楽ブログを読むことが減った。

自分の生活リズムが変化したり、物事の優先順位が変わった結果な気もする。

まあ、別に自分が人のブログを読む読まないはわりとどうでもいいことなんだけど、たま〜に音楽ブログ(という言い方が正しいのかどうかはよくわからんが)の文章を読むと、その独特のテンションにん?ってなることもある。

この記事では、最近、ん?って感じた気持ちを言葉にしてみたいと思う。

本編

どのブログのどの記事というつもりはないんだけど、ものすごくその記事がある種の笑いをとろうというテイストで文章を書いていたのだ。

まあ、笑いをとる、という行為自体は良いも悪いもないんだけど、音楽ブログの場合、扱う題材が音楽だったりアーティストだったりするため、笑いを生み出す際、そういう音楽やアーティストを笑わせるための「ネタ」にしてしまうシーンをよくみてしまう。

特に極端な物言いで、ときにディスりまじりの言葉選びで、笑わせるためのギミックを生み出すわけだ。

自分はわりとお笑いが好きで、芸人のネタとかバラエティ番組もわりとよく見るので思うんだけど、笑いっていくつかのパターンがある中でもっとも即効性が強いのが「毒」である。

人を傷つけない笑いがトレンド、と言いつつもなるべく簡単に、素早く笑わせるとなると、対象に対して毒をまぶすのが一番手っ取り早い。

まあ、毒をつかった笑いでひとつ気をつけなきゃいけないのは、毒を使う場合、そのピントを外さないことが重要であり、深い洞察力が必要となる。

一番わかりやすいところであれば、有吉なんかがそうだと思うんだけど、有吉は芯を外さない的確な観察眼をもって、毒をはくため、その毒が圧倒的な笑いを生む。

なので、毒をはく、というのはある種のあるあるネタの延長線上に存在しているといえるのかもしれない。

M-1でミルクボーイが披露した「コンフレーク」のネタだって、毒に特化したあるあるネタのひとつとみてとることもできる。

まあ、何にせよ、毒は笑いを狙ううえではけっこう重要な要素になりがちという話である。

で。

音楽ブログの場合、毒を使うとなると、おのずとアーティストの作品やアーティストの身振り手振り、場合によってデフォルメされた人格に踏み込んで言葉にする必要が出てくる。

もちろん、どんな媒体であれ、感じたことを言葉にしたらいいのだから、毒を吐くのだって自由だとは思うわけだけど、当然ながらネタにするその人だって生きている人であり、色んなことを感じながら生きている人なんだよなーと思うわけである。

自分ごときの人間でも、ブログに対して「毒」を向けられると、わりとむかつく(よく毒をはく人に限って、自分がアンチされると過剰反応する人が多いイメージだが、それはまあ置いておこう)よなーということを考えると、よっぽど的確な観察眼をもった愛ある言葉でない限り、その毒はただただ刃になるんだろうなーなんて思ってしまうわけである。

そこで笑いをとるとき、そこまでの覚悟を背負い込んで言葉にしていたらいいと思うけど、その人が目の前にいてもいじれるレベルの毒だったり全然いいと思うんだけど、そうじゃない過剰な毒を先行させるとしたら、それはどうなんだろうと思う自分がいたわけである。

いや、別に人がやるぶんにはまあいいんだけど、自分がやる、ってことを考えると、安易に振りかざせないなーなんて思ったわけである。

もし、そうしないと「面白い」が作れないのだとしたら、自分は「面白い」を降りてしまう。

気がついたら、そんなことを考えるようになったのである。

バラエティで芸人同士がいじりあうのは、ある種の信頼関係があるからだ。

でも、自分とアーティストとの関係性はそういうのとは違うからなあ。

そんなことを思うような日々を過ごしているのである。

まとめ

たぶん歳を重ねれば重ねるほど、自分の言葉の鋭さに苦言を呈する人は減っていく。

若い人が毒を吐いている分には「切れ味が鋭い」ですんでいても、立場が上の人がそれをかざせば単なるパワハラになってしまうみたいなところもあるわけで。

そういう関係性を忘れて、「悪口」を自称して武器を振りかざすのも危険だよなーなんてことを、たまに思ったりもするのである。

なので、僕は大型マッシュヘアーのバンドマンをみかけても、「こいつの髪型、ちんこみたいだなあ」なんてイジらないようにしようと思うのだ。

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