気がつくと今年も大きな夏フェスはほとんど全て中止になっている件

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2020年は、夏フェスがほぼ全て中止になった。

例年なら万単位の集客を行っているフェスで唯一開催されたのがRUSH BALLだった。

その時、多くの人がこう思っていたのではないかと思う。

今は我慢なとき。

この我慢を乗り越えたら、きっと前みたいなフェスが開催される世の中がくる、と。

しかし、2021年なっても正直状況は変わっていない。

もちろん、昨年よりも開催できているイベントの数は増えている。

しかし、どれだけの成果を出しても音楽フェスはやり玉に挙げられることが多い立場だ。

可能な限り協力を行い(そのため、昨年はほとんどのイベントが中止という判断を行った)、今もなお色んな形で惜しみない協力を行っているように思うが、昨年と比較しても、色んな意味で状況が好転しているとは到底言えない。

見方によっては、色んなレベルで昨年よりも状況が悪くなっている、とさえ言えるのではないだろうか。

世の中的な見立てではワクチンさえ摂取すれば、コロナにおける問題はある程度解決する。

だから、それまでの辛抱だ、という話になっている。

そのとおりになるのかもしれないし、まったくそうはならない可能性もある。

ただ、<時間さえ経てば状況は好転する。だから、世の中の空気の流れにとりあえずのっかっていく>というだけでは(人によっては)まずい状況が続く可能性は否めないと思っている。

少なくとも、昨年と今年の対比だけで考えたら、そういう見立てをすることが突飛なこととは言えないと思う。

閑話休題。

今日も、イベントの中止が発表された。

そのことによって、悲しむ人もいれば、怒る人も出ている。

立場によってきっと見え方が違うし、悲しみの度合いや怒りの度合いだってきっと違うだろう。

なので、それを受けて、発言する言葉も人によって変わってくる。

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オリンピックに向いがちな眼差し

フェスが中止になったとき、対比としてオリンピックの話が持ち上がりがちだ。

なぜオリンピックは優遇されて、フェスはこんな仕打ちを受けないといけないのか、という話である。

ロッキンでいえば、医師会に対してわかりやすい憎悪をぶつける人もいた。(確かに流通している事柄を拾えば、怒りが増幅されるのも納得の話ではあったが)

そして、そういうわかりやすい負の感情こそがもっともわかりやすい形で目につくからこそ、アーティストの多くはそういう感情を諌める言葉を述べがちとなる。(あるいは、そこに対して明確な怒りを滲ませた言葉を述べている人もいる)。

事柄に対して、何をみて、何を感じるのか。

そこにその人のスタンスが見えることも増えてきた。

自分的には、わかりやすい話に収斂していき、ジャンクフードな感情に落とし込むのは危険性だよなーとは思っている。

わかりやすい的に憎悪を燃やすだけなのは違うよなーとは思うのだ。

もしフェスが中止になって悲しいという気持ちが本当なのだとしたら、そういう悲しい事例を少しでも少なくするには、どうしたらいいのか、というのがきっと考えるべきことだと思うからだ。

そんなとき、単純にわかりやすい対象にだけ怒ることに終始したり、「悪いのはコロナだ」みたいな言葉に目を向けて、全てを仕方ないで終わらせるのはどうなのかなーという思いが出てしまうわけだ。

まあ、去年だったら、まだそれでも良かったかもしれない。

でも、今までと同じように時間が経てばなんだかんだで状況は好転する、といったテンションでいたら、きっとどんどん悲しいは増えてしまうと思う。

だから、もう少しきちんと考えないといけないことも多いように思うのだ。

音楽は現実の嫌なことを忘れさせてくれるものだけど、今は(通常よりもわかりやすい形で)音楽と現実がリンクしていることを痛切に突きつけているからこそ、なおのことだ。

なんせイベントの中止が連続する、という話だけだったらまだ良い。

けれど、場合によっては、もっとそれよりもひどいことが連続する可能性だって全然あるのだから。

少なくとも、そういう可能性がまだまだあるような状態のご時世で<我慢>みたいな言葉が優先的に出て、それが一番の<バズる>言葉になってしまうのはあんまり良いことではないよなーということは、ついつい思ってしまうわけだ。

少なくとも事実として、去年の段階で違う選択をしていたら、今はイベントを中止にしなくてもすむような世の中に十分できた可能性だってあった。

中止とか中止じゃないとかとは別の形で、もっと別の示し方ができる世の中だって十分にあったわけだ。

フェスが中止になることが悲しい。

少なくとも来年にはそういう悲しさを体験しない世の中にしたい。

きっとその想いは自分も含めて、音楽が好きな人が持ち合わせている感情だと思う。

せめて中止にならざるを得ないとしても、それまでに行き着くストーリーをもっと違ったものにすることだってきっとできるようにも思うし。

そんな風に色々と考えていくと、自分ごととして考えるべき問題はわりとあるのかなーなんてことを思うのだ。

もちろん、中止を選択した主催者に対する慮る気持ちはとても大きい。

せめてその選択が間違っていないと言えるようなバトンのつなぎ方をしたいとは思う。

そこが前提のうえで。

でも、それとは別にして<去年可能な限りを協力していたのに、昨年よりも(色んな意味で)ひどい状況になっている現実>に対する問題との向き合い方は別にして考えるべきなのかなーと思っていて。

時間が経てばなんだかんだで状況は良くなる、みたいなものはもしかしたら幻想かもしれない、だからこそきちんと然るべき選択をする必要があるのかも、という想像力はあってもいいのではないかなーなんてことを思う。

これだけ考え事をせざるを得ない状況が続くと。

そんなことを、どうしてもそう考えずにはいられないのである。

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