大きなニュースが動くことについて

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本日、ROCK IN JAPAN FESTIVALが中止が発表された。

ロッキン側から発表されたメッセージが全てを物語っている。

こういうご時世になって一年以上が経つのに、いまだにふわっとした言葉で圧力がかけられてしまうという事実。

未来に向けてより良くなるためのビジョンが一切うてず、権力を持っている側にとって都合の良いルールで構築されて、ケツはロッキン側がもたされてしまうという現実。

もちろん、色んな立場から物事を考えたり、ネガティブな方向で未来の予測をたてたとき、こういう落とし所になってしまうのが突飛なものとは言えない、というのは確かにある。

けれど、苦言を呈したいトピックはいくつもあって、「仕方ない」で収めてはいけない要素だっていくつもあって。

そこに対して(ある程度は)問題に目を向けないといけない、じゃないときっと改善されない大きなものがいくつかもあって、考えないといけない事柄がいくつもあるのだと思う。

とはいえ。

そういう言葉を書きたい、というのがこの記事の本筋ではない。

それに、ロッキンが中止までの顛末における是非については、きっと他のブロガーやメディアが言葉にすると思うので、それについてはそちらの方に譲りたいと思う。

この記事で置きたいのは、言葉をめぐる諸問題について、だ。

というのも、このニュースをめぐって、色んな立場の人が、色んな立場で言葉を述べている。(完全なる反対意見者というわけではなく、もっとフェスに近い側における人たちにおける言葉の話)

根っこにあるのは自分とその周りがより良くありたいという願いから生まれた言葉だとは思うんだけど、時によって、その言葉は立場が違う人の頬を殴る結果になっているよなーと思う言葉もあるのだ。

誰の何、ということに関してはここで語らない。

けれど、それによって本質とは違う点で問題が生まれ、分断が生まれて、言葉と意見が衝突している事案をみかけてしまうのだ。

片方の言葉がきちんと相手に届いているならそれでいい。

んだけど、自分が観測する限り、そういう衝突が生まれていると、そこで意味のある形に収束していることはほとんどない。

互いが(その周りの人たちも含めて)己の意見が正しいという確かめになるための儀式にしかなっていないように見えてしまうわけだ。

当然ながら、立場ごとに見えている景色って大きく違う。

そのため、意見だってどうしても食い違うし、トピックに対する言葉の扱い方も大きく変わってしまう。

例えば。

自分もあえて、昨年から主催でライブイベントを行うようにした。

理由はいくつもあるけれど、そのひとつとして、ブロガーやライターにおけるイベントに対する言葉の空虚さがなんだか嫌だなーと思ったことがあって。

というのも仕方のない話ではあるが、イベントをやったことがない人が語るイベントに対する言葉って、あまりにも地に足がついていない理想論になってしまい、うむむむむむと思う言葉を見かけてしまうことがあるわけだ。

ならばせめて、自分が言葉を紡ぐとき、軸足を変える必要があるのではないか。

そんな思いに駆られた部分があって、こういうご時世だからこそイベントをやる必要性を大きく感じたので、自分はやる決断をしたのだった。(いや、もちろんそれだけではないけどね)

んで、それまでイベントをやっていた人の多くがイベントをやらなくなった世の中で、自分が「ライブイベントをやろうと思う」みたいなことを人に話すと、「もっと落ち着いてからでいいやん」みたいなことを言われることもあったのだった。

けれど、自分的には「いつか落ち着く」ということがすごく懐疑的だった。

変な話、そんな簡単に「落ち着く」が実現するとは思えなかったし、気がついたら何かがなくなっている未来だって全然あると思っていた。

だからこそ、きちんと自分の手で選びたい未来を選択しないと「それ」を得ることがどんどん難しくなるんじゃないかなーみたいことも考えていたのだ。

なーんて、偉そうなことを書いたけれど、やりたいうちにやっとかないと後悔するんじゃないかなーという見立てだったわけである。

まあ、違う立場に足を置いてみるからこそ見える景色ってのは確かにあって、やっぱり自分的にもライブイベントに対する見え方・感じ方は大きく変わった(何がどう変わったかというのを語ると長くなので割愛するし、自分のイベントでかかるお金なんてせいぜい本業の1~2ヶ月分の給料くらいなもので、ロッキンが中止になることと到底比較できるものではないんだけどね)

なんせ立場が変わると見え方が変わると思うし、規模が大きくなればなるほど、立場が違う人の目にとまったり、場合によってはそんな人にも力を借りる必要も出てくることも実感する。

だからこそ、そこで発せられる言葉はどこまでも慎重にならないといけなくなるわけだ。

背負ってるものが大きいからこそ、ひとつの選択をするうえでの判断は難しいものになっていく。

逆にいえば、背負ってるものが限りなく少なければ、感情にまかせて言葉を述べたところで失うものは、わりと少なくてすむのかもしれない。

ただし。

一見何も失っていないように見えても、感情で発した言葉が感情的であればあるほど、自分の言葉が届く範囲とはいうのは狭くなってしまう。

これは、バズっているSNSでの言葉の反応みれば、なんとなく理解できることだと思う。

だからこそ、そこにはある種の慎重さも必要になる。

なので、声をあげている人の口に手をそえて口をつぐませてしまうことを避けながらも、ときには慎重になりながらも、言葉を述べていく必要があるのかなーなんてことを思うわけだ。

ただ自分と同じ意見の人と共感しあうだけなのではなく、きちんと共闘すべき相手と共闘すべきというビジョンがあるならば、なおのこと。

話は戻してロッキンの中止における雑感へ

思うことが、ひとつあって。

意見を言わないことが正義、という空気もやっぱりよくないよなーとは思っていて。

無理に意見を言う必要はないけれど、いつしか余計なやり玉に挙げられない言葉のみを積極的に選択していくことが正義になっては、コントロールしたい側(今回でいえば、イベントを中止にする側)にとって都合の良い世界にどんどんなるよなーというのも確かにあって。

さらには、傾聴に値すべき主張を毅然とはなっている人に対して、冷たい眼差しを送ってしまいがちな世の中になっていると、きっと今と同じように都合の良いタイミングで、都合の良い形で切り捨てられてしまう事態が続いてしまう気がするのだ。

もちろん、こんなタイミングでフェスを開催しようとするべきかどうかという是非はあるにしても、世の中の空気感が異なっていれば、もうちょっと違う結末を迎えた可能性だって、あると思うから。

だからこそ、慎重になりながらも、然るべき言葉を述べる必要があるのかなーとも思うのだ。

じゃないと、下手をしたら来年だって同じようなことなってしまう可能性だって、今と同じような辛い事態が十分にあるわけなのだから。

ずっと問題から目を背けて現状維持を繰り返せば、下手をすれば、今年よりもひどい未来が訪れる可能性だって十分にあるわけなのだから。

「いつか良くなる」は、思っている以上に先にある可能性だってあるし、それを主体的に選びに行かないと手に入れることができないものものである可能性だって、十分にあるのだから。

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