バズる、なんて音楽にとっては些末な話な説

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音楽を生業にしている人なら、きっとたくさんの人に自分の音楽を聴いてほしいと思っている人が多いと思う。

また、好きなバンドが売れていなければ、もっとたくさんの人に評価されるべきだと思う人が多いと思う。

そして、たくさんの人がその音楽を聴く(知る)ようになったとき、その音楽が<バズった>という言葉で表現しがちである。

自分も記事でよく<次のブレイクするバンドはこれだ>とか<バズりそうなアーティスト特集>みたいな記事を書くこともある。

でも、思うのだ。

<バズる>が目的になってしまうのは違うよなーと。

たくさんの人に聴かれるべき音楽ってたくさんあるけれど、数字だけに目を向けることになってしまっては違うよなーと思うのだ。

なにより<バズる><バズらない>は音楽の評価するうえでの軸になるべきではないよなーと思う。

だって、バズるはあくまでも結果でしかなくて、音楽の価値をはかるための尺度ではないと思うから。

いや、当然仕事として音楽を選んでいる人がある程度数字を求めるのは当然だとは思う。

その中で、どうしたらたくさんの人に聴いてもらえるのかを考えるのはすごく大切なことだ。

でも、<そこ>ありきになってしまうのは違うというか、売れているから凄い、売れてないからダメみたいな価値基準になると違うよなーと思っていて。

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バズる音楽たち

今年の音楽シーンでいえば、AdoやYOASOBIが圧倒的な数字を叩き出している。

今年話題になっている楽曲で数千万の再生数を叩き出している楽曲は他にもいくつかあるが、YouTubeにおいて億の単位の再生数を到達している曲といえば、「うっせぇわ」と「怪物」のふたつが代表的かと思うわけだ。

確かにこの数字は、とても凄い。

でも、億をいっているこの楽曲が、いっていない他の楽曲に比べて<優れているか>といえば、そんなことはない。

というより、人によって好きな音楽は違っていて、好きとか優れているを判断するうえで、そこの数字は意味を持たないように思うのだ。

あと、これらの音楽が流行ってから、この歌はこういう構造だからバズったのだ、といった分析がよくされる。

「うっせぇわ」においては、歌詞の部分でこういう内容だから若者にうけた・・・みたいな話をされがちだ。

でも、似たような眼差しの歌が流行らないことだってたくさんあるし、<それ>が売れた本質的な理由であるとは誰も簡単には言葉にできないと思うのだ。

バズるというのは、どこまでいっても結果論でしかないわけだ。

ただ、AdoやYOASOBIはアーティストとして優れているなーと思っていて。

それは、バズったあともコンスタントに楽曲を発表し、そのどれもが魅力的であるからだ。

前の楽曲とはまったく違うテイストながら、魅力をたぶんに含んだ楽曲を発表している。

そうこうしていたら、Adoの「うっせぇわ」を面白おかしく語るメディアは、以降のAdoの音楽について余計な口の紡ぎ方はしなくなる。

数字によって呼び寄せられていたネタとしての消費の空気は、アーティストとしてのコンスタントの凄まじさの中で霧散していく。

「うっせぇわ」がバズったから、次もバズるためにこういう感じでいこう・・・の眼差しだったらネタで消費される空気も続いていたかもだが、そういうのとは別の尺度で良い音楽を良い形で発表し続けていたからこその変化なのではないか、と勝手に思っている。

バズる、は音楽の価値を決めるものじゃない。

バズるとかバズらないかとかは、違う尺度の中で音楽の良し悪しは醸成されていく。

そんなことを思うのである。

まとめ

とはいえ、コンスタントに良い数値を出し続けている人は、単純にワクワクする音楽を生み出し続けている人が多いように思う。

米津玄師や星野源、Official髭男dismや藤井風など、名前を挙げたらキリがない。

こういう人たちは、バズとかは無縁のところで、圧倒的な価値を提示している。

たくさんの人に音楽が聴かれることは大切だ。

でも、それは結果でしかない。

それ以上の深い意味はないはず。

そんなことを思うのである。

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