ネガティブでもポジティブでもないこの温度感が、BUMP OF CHICKENなんだ

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藤原基央が創る音楽には、自分がどこかに隠して忘れてしまった思い出とか、遠い過去に感じた懐かしいにおいとか、言葉に直せなくて閉まってしまった感情とか、そういった自分の中のもどかしい何かをひっぱりだす力がある。

音楽というのは、自分ではない他人がメロディを書いて、歌詞を書いて、組み合わせて演奏して、CDだとか配信だとかラジオだとかテレビだとかあるいはライブ会場とかから聴こえてくるものであって。

どんなに言葉に共感したりメロディを好いたりしても、他人が創ったものであることには変わりない。

自分の過去や思い出や感情など知り得ないのに、BUMPの音楽はあたかも自分を知っているような感覚になるどころか、自分でも忘れていた自分まで引っ張り出してくれることが多々ある。

前置きが長くなったが、「記念撮影」を初めてきいた時にもその感覚があった。

これはたぶん、非常に感覚的なものであり、それこそ言葉に直すのは難しいのだが、
“せつない”とか“なつかしい”とか“やさしい”とか簡単な単語で表すには足りない、もっとずっと距離が近いような感覚があるのだ。

そして、心のポケットにストンと落ちてくるような感じがするのだ。

そんな感覚的な感動に単純に飲み込まれてしまうのだが、よく目を凝らせば「記念撮影」の歌詞は実に巧みに作りこまれている。

例えば、こうだ。

1番
『目的や理由のざわめきからはみ出した
 名付けようのない時間の場所に』

2番
『目的や理由のざわめきに囲まれて
 覚えて慣れて ベストを尽くして』

論理的な現実からはみ出した過去、論理的な現実に囲まれた現在の対比。

1番
『遠くに聴こえた 遠吠えとブレーキ』

2番
『聴こえた気がした 遠吠えとブレーキ』

遠吠えとブレーキが遠くで確かに聞こえていた過去、遠吠えとブレーキが聴こえたかは確かではない現在の対比。

1番
『曖昧なメロディー 一緒になぞった』

2番
『曖昧なメロディー 一人でなぞった』

君といた過去、君がいない現在の対比。

1番
『君は知っていた 僕も気づいていた
 終わる魔法の中にいたこと』

2番
『君は笑っていた 僕だってそうだった
 終わる魔法の外に向けて』 

魔法が終わることを知っていた過去、それでも笑っていた魔法が終わった現在。

想い出のパーツを1番で伏線を敷き、時間が経過した2番で回収している。

この手法がとてもリアルだから心のポケットにストンと落ちるのだと思う。

何がリアルかというと、1番の過去パートをただの「美しく楽しい青春の思い出」として描いていないことだ。

紙飛行機みたいにふらふらと時間を漂ったり、笑顔もあるけどため息もあったり、やりたいことがあったような気がするけどうまくやれなかったり、とふらふらしてばかりである。

そして、2番ではそんな過去よりは少し大人びた感じをにおわせつつ、過去とは違って独りであり、寂寥感も感じさせつつ、ちょっとふらふらしていた甘酸っぱい過去を思い出しては『とても楽しくて ずるくて あまりに眩しかった』と語っている。

あまりにもリアルである。

これは個人的な感覚なので、異論を感じる方もたくさんいらっしゃるかとは思うのだが、
別にそんなにすごくハッピーで華やかで充実した学生ライフを送っていたわけではなくても、現在からみた過去というのは本当にとても楽しくてずるくてあまりにも眩しかったと思えるものだ。(学生時代に限らずとも、楽しかった過去というのはなぜだか自分ごとながら”そんな良い思いしてずるい”と思ってしまうことがある)

ここら辺が、普段思っていても言い表せなかったことをぴたりとあてられた感覚になるのである。

それから、歌詞に出てくるアイテムの使い方も”自分の記憶の中にあった懐かしさ”を呼び起こさせる重要なアイテムになっている。

たとえば、
紙飛行機、遠吠え、ブレーキ、コーラ、
曖昧なメロディー、ポケット、鍵、レシート、
面倒な本音、固まって待ったシャッター…。

藤原基央は昔からこういった心の琴線に触れるなつかしいアイテムを用いるのが上手である。

歴代で言えば、ダイナモ、光化学スモッグ、野球帽、マンホール、指さしたUFO、汚れたカンテラ、つぎはぎの傘、飛行船、鉄棒…。などがあげられる。

それらの過去作品のキーワードにも通じる懐かしさのエッセンスをふんだんに盛り込んでいるので、冒頭に書いたように“自分の過去や思い出や感情など知り得ないのに、BUMPの音楽は自分を知っているような感覚になる”のだと思う。

このように、懐かしさを感じるキーワードを含ませながら、過去と現在を対比させながら、BPM60の速度で─時計の秒針と同じ速度で進んでいく「記念撮影」だが、結末はこうなっている。

『迷子のままでも大丈夫
 僕らはどこへでもいけると思う
 君は笑っていた 僕だってそうだった
 終わる魔法の外に向けて
 今僕がいる未来に向けて』

ずっと過去を見ては、懐かしく思ったり、愛しく思ったり、ずるいなと思ったりしていたこの歌の主人公だが、実はそれは未来を見据えるプロセスでもあったのだ。

迷子のままでも大丈夫だった過去がある、魔法が終わることをわかっていても笑っていた過去がある。

“イマ”という未来は過去から地続きであり、その過去の自分は”イマ”に向けて笑いかけている。だから迷子のままでも、大丈夫だ─

そう思えたこの結末が、私はとても愛しく思うし、ある種の救いのような、爽快感のようなものすら感じるのだ。

決してネガティブでも、別段ポジティブでもないこの温度感がとても心地よい。

だから、私の心のポケットにストンと入ってくるのだと思う。

それはまるで、魔法のように。

最後になるが、藤原基央はあえてこの歌の中に記念撮影や写真やカメラという言葉は用いていない。

その理由は、今月発売のCUT7月号に書かれているので是非確かめてみてほしい。

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筆者紹介

ちょの(@nagitan2)

BUMP OF CHICKENを愛する千葉県民。 地味で臆病でマジメだと思って生きてるが、リア友にはトガってて大胆でおもしろ変人と言われる謎。ビールが好き。

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