三浦大知の誕生日に語る三浦大知の良さ

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テレビパフォーマンスで、言葉にできないほど感動するケースってそこまで多くない。

いや、もちろん、テレビで素晴らしいパフォーマンスを目撃することはある。

だけども、どうしてもテレビのパフォーマンスってテレビの「尺」に合わせて披露するから、ダイレクトにそのパフォーマンスをくらうことって少なめなのだ。

感動することはあるんだけど、どうしてもその感動が穏やかになりがち・・・とでも言えばいいだろうか。

エンタメって没入すればするほどそのときの感動が大きいと思っていて、だからこそ映画だったりライブだったり本だったり、自分的に没入しやすいものの方が感動が大きいことが多いのだ。

それに対して、テレビはどうしても〜ながら視聴になるため、没入度が浅くなり、感動の度合いも穏やかになってしまうのかなーなんて思うのである。

ただ、時たまテレビのパフォーマンスでも、それくらいに惹き込まれ、感動に誘われる、そんな衝撃といって差し支えがないレベルのパフォーマンスに出会うことがあるのだ。

最近で言えば、間違いなくおげんさんでの菅原小春と三浦大知のパフォーマンスが、それだと思っている。

あのパフォーマンスは、間違いなく言葉にできない感動を与えてくれた。

このブログ上では、そのパフォーマンス自体をシェアすることができないので口惜しい限りではあるが、一流と一流が呼応し、お互いが挑戦的に刺激し合うことで生まれた、唯一無二の瞬間がそこにあった、ということはお伝えしておきたい(きっと視聴された方なら、わかると思う)

で。

なぜ、その放送が行われてしばらくしたタイミングでこんな話をしているのかといえば、三浦大知の誕生日がこの記事を書いている8月24日だからである。

本編

個人的に海外に見つかってほしいアーティスト

たまたま自分が最近、サマソニに行ったということもあって、今のモードがわりと「海外の音楽、面白い」なモードに突入しているんだけど、それ比例して、このアーティスト、もっと海外に知ってもらったらきっと良い刺激を与えることになるのに・・・というケースも生まれている。

三浦大知もまた、そういうアーティストだよなーと思うのだ。

なぜ、そう思うのか。

理由はいくつかある。

三浦大知はマイケル・ジャクソンに影響を受けたことを公言している。

基本的に、洋楽をある種のルーツに持つアーティストだと、常にアウトプットする音楽に自分のそのルーツ性が作品に投影される。

もちろん、三浦大知のパフォーマンスはマイケル・ジャクソン的なイズムを継承している部分もあるとは思う。

んだけど、「そこ」に収まっていないのだ、三浦大知の音楽って。

特に、年々その「収まらない感」は増しているように思う。

「飛行船」なんて、そんな代表曲だと思う。(例えが、いわゆる最近の歌ではなくて申し訳ないが)

わりのダンス・ミュージックの多くは、R&B的なエッセンスを持っているか、クラブミュージック的なビート感を楽曲に内包しているように思うんだけど、三浦大知の「飛行船」は、そういう地底とは異なる装い持っている。

和楽器のサウンドが入っている、という話をするまでもなく、楽曲が生み出す音色とリズムだけで、ポピュラーなダンス・ミュージックとは違う質感を生み出している。

じゃあ、ダンス・ミュージックの範疇からずれた楽曲なのかといえば、そんなことはなくて。

やっぱり楽曲を丁寧に聴き、三浦大知が踊る姿を観ていくと、この歌は明確にダンス・ミュージックとして成立しているようにも感じて、それがまた良い意味で恐ろしい。(まあ、このあたりは聞き手がどういう軸で音楽を聴くかによるのかもしれないが)。

というよりも、三浦大知は楽曲が持つ<ダンス性>の汲み取り方と構築の仕方が素晴らしい、という捉え方が正しいのかもしれない、なんてことを思う。

それこそ前述した菅原小春とダンスを行ったのは、星野源の「喜劇」である。

この歌は、たぶんだけど、ダンスをするために作った歌ではないと思う。

少なくとも、三浦大知や菅原小春が踊る想定が作った歌ではないはずだ。

しかし、二人はこの楽曲でダンスをすることになる。

しかも、いわゆるダンス用のアレンジを施すのではなく、原曲のアレンジのままでダンスをしている。

まあ、このときの二人のダンスは一般的なダンスと並列して語るのが憚れるような代物だったかもだけど。

なんにしても、この二人だからこその刺激に満ちた空間と時間だったし、「喜劇」が持つ朗らかな空気感と、ゆるやかさのあるビートメイクだから踊ることができたダンスだったようには思うのだ。

・・・ということを考えてみると、「喜劇」が持つ<ダンス性>を二人が見事に汲み取ったからこその代物だった、とも言えるのかなーなんてことを勝手ながらに思うのである。

即興的でありながら、ある意味では即興的に感じさせない必然の流れがあったあのダンスの素晴らしさは、ひとつの側面では到底語れるものではないんだけね。

閑話休題。

なんにしても、三浦大知のパフォーマンスと音楽って、邦楽がどうとか洋楽がどうとか、どっちの音楽が優れていてこっちの音楽はまだまだ微妙で・・・みたいな二項対立を無意味にしてく強度と凄みを解き放っているように思う。

・・・ということを踏まえて、素直に海外の人にも見つかって、たくさんの人に「すげえ」と思われてほしいと思ってしまう。

流行とか話題とかじゃなくて、素直にパフォーマンスの凄さで、たくさんの人がぐっとくると思ってしまうからこそ。

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ポップス的な嗅覚と、歌声の良さ

先程の項目では、三浦大知はダンサーとして素晴らしい、ということを述べた。

これは確かだと思うが、一方ですごいのはダンスだけではない。

「燦燦」をもって、より三浦大知のボーカリストとしての素晴らしさも実感したのではないかと思う。

歌って踊る部分の凄さを語られることが多いからこそ、歌うことに全振りする「燦燦」の良さはよりダイレクトに届いたのではないかと思う。

歌声そのもので作り出す表情が鮮やかや、自身で紡いだ言葉の意味に明確な輪郭を帯びる感じは、三浦大知のボーカルだからこそ為せるものだ。

あと、「燦燦」の歌メロど真ん中な感じも良いよなあと思うのだ。

なんせ、2022年、その前にリリースされたのが「Le Penseur」というアート性とある種の批評性が炸裂した楽曲だったから。

「飛行船」のような歌も歌うし、「Le Penseur」のような歌も歌うし、「燦燦」のような歌でも魅了する。

どっちの方向に舵をとっても感動性の高いものを生み出しているからこそ、三浦大知には魅了されっぱなしになってしまうのである。

まとめ

なんだか、話が右往左往してしまったが、三浦大知は2022年も最高を更新しているなと感じた次第。

三浦大知が誕生日の今日、改めてそれを振り返ってみたくなったという、そういう話である。

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