前説

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3月11日は東日本大震災のことを思い出す。

この記事では、そのことを絡めながら簡単な文章を記してみたい。

本編

当然ながら震災に関して、片付いていないことはまだまだある。

復興支援も原発に関しても、まだまだ問題は山積みだ。

本来、取り組まないといけないことは、まだまだたくさんある。

色んな問題が現在進行系で残っている。

が、少なくともそこに漂う空気だけは大きく変容した。

変わらないものもあるけれど、変わったものもある。

9年という、「振り返る」には短くない歳月が経ったのだから、ある意味当然の話である。

それにしても。

震災が起こったときの空気は、世知辛いものがあった。

出る杭うたれるじゃないけれど、なんとも言えない空気がそこにはあった。

去年の台風でもそうだけど、何かが起こると悪い意味で同調圧力が働いてしまう。

「叩く人」が必ずしも間違いとは言えないけれど、正義が暴走してしまう瞬間も感じてしまうのである。

そして、そういうとき、どうしても音楽はいつでもやり玉に上がりがちだった。

衣食住ほど必要なものではないから当然なのかもしれない。

衣食住があってこそ、音楽を享受できるようになる、というのはよくわかる話だ。

だから、それまでは音楽なんてフタをするべきだ。

間違い、というわけではない。

でも、そういう正義の居心地の悪さを感じてしまう側に、自分はいてしまった。

そういうところはあるのだ。

なにより、こういう話題を考えるうえで、自分にとって音楽こそが身近だったという背景もある。

自分が今でも東日本大震災を過去のものとせず、どちらかというと「身近なもの」として記憶しているのは、音楽を生業にしている人たちが、震災に対して常にメッセージを放っていたから。

そういう部分は強くあるのだ。

ライブハウスに親しい距離でライブをやっているバンドマンの一部は、こういう問題と懸命に向かい合い、自分なんかにも「考えるきっかけ」を与えてくれたところがある。

政治も音楽も日々の生活も、自分にとってそんなに大きな隔たりはなかったのだ。

そんなライブハウスがいま、苦境にたたされている。

まあ、今回の場合、ライブハウスだけじゃなくてエンタメすべてで起こっていることではあるけども。

しかも、今回は日本だけの話じゃなくて、世界規模の話になるわけだけども。

政治的な判断、経済的な判断において、何が正しくて何が間違っているのかのは一概に言えないところではある。

けども、なんとなくライブハウスをはじめとするエンタメをやり玉にあげてしまう空気や状況に対して、思うところがたくさんある。

センシティブな社会的なものにもきちんと取り組んできたライブハウスだったり音楽だったりが、簡単に「いらないもの」として切り捨ててしまう空気には、思うところがいくらでも出てくるわけだ。

東日本大震災と今の状況。

比べるにしてはあまりにも状況が違うし、そもそも比べるべきものではないだろう。

ただし、窮地に遭遇したときの人の心理を捉え直すとき、あのときの日本の空気を想像しながら、今の日本の空気を想像する必要はあるのかなーと思っていて。

そして、そこから何を考えて、何を大切にするべきかを考えることはすごく重要なことではないのかなーと思ったりするのだ。

一ヶ月経てば、春がくる・・・

そんなことを言っている人もいるが、個人的には、そんな甘い事態にはもうならないレベルになっていると思うし、とっくに均衡は崩れているとは思う。

でも、悪い意味でどんどん空気に流されて大事にものを見失うのは、また違うよなーと思う。

しかるべき軸を持つことが大切、という意味で、東日本大震災のときも、今の状況も同じなはずだ。

不思議と、こういうとき、自分はそんなに迷わずに価値を選べている自信がある。

つくづく、自分は音楽が好きで、音楽を通して色んな価値に触れてきたことは間違いなかったんだよなーと思うのだ。

こういう逆境にたたされたときに、かっこいいと思えるバンドマンがたくさんいたから、迷わずに選択できているのかなーなんて思うのだ。

忘れてはならないことは何か。

大切にするべきものは何か。

改めて、そのことを考えながら、今はただただ粛々と与えられた情報について考え、自分がやれるべきことに取り組んでいくしかないんだよなと思うのだ。

ある意味、そういう前向きさを持っていられるのは、音楽が好きで、バンドが好きで、好きなバンドが「かっこいい像」を提示してくれたから。

強くそのことを思う。

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