前説

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ワルという価値観を肯定し、そのワルであることを過剰に礼賛するHIPHOPが嫌いだ、みたいな記事を読んだ。

個人的な意見を言えば、納得できる部分もあるけれど、ちょっとそのカテゴライズは安易じゃないか、みたいな気持ちも生まれる、という感じだった。

ジャンルそのものに挑発的な言葉を提示するとなると、膨大なる過去の作品を頭に入れたうえで語らないと、どうしても叩かれる対象となる。

この書き手が本当にHIPHOPが嫌いで聴いてこなかったのだとしたら、その知識にはスキがあるわけだし、そうじゃなくてもHIPHOPはワルという価値観で語る物言いはどうしてもちょっと物事を単純化しすぎではないか、という想いが生まれちゃうわけである。

まあ、書き手は大きな批評性を持ってこの記事を書いたわけでないのかもしれないし、知識がないとジャンルについて語ってはならないみたいなマウントのとり方自体はつまらんと思うタイプのオタクなので、これはこれでアリなのかもというところではあるのだけど。

本編

ブログをやっているとわかるのだが、ある種の仮想敵を作って、その対象を面白おかしくディスるというのは、もっともアクセスを稼ぎやすく、バズリやすい手段のひとつである。

自分のブログで言えば、この記事なんかはまさしくそういうテイストの代表だ。

この記事は、昔のファンと今のファンという軸を作り、今のファンは盲目的になっている人が多いと断言したうえで、その人達にマウントを取る書き方をしている。

語っているトピックや表現方法は大きく違うけれど、仮想敵を作ってマウントをとり、そこで何かを語ったように見せるという手法には通ずるものがあるように思うのだ。

なにより大きなカテゴライズを作り、そこで分断を作ってみせ、片一方をぶん殴ることでマウントをとっていくという手法は地下室タイムズなんかがよくやっていた手法だったわけで、ネット発の音楽記事にこういう構造が下地にあるパターンがたびたび散見される。

分けることへの懐疑

ちょっとだけ違う話をする。

例えば、男と女という分け方があったとして、男は論理的な思考が得意で、女は感情的に物事を考えがちだ、みたいなことを言うことがよくある。

もちろん、大きくみたらそういう傾向はあるのかもしれないが、じゃあ女の人は全員論理的な思考が苦手なのかといえばそんなことはないし、男性の多くは一般的な男性像に当てはまるのかといえば、当然そんなことはない。

つまり、カテゴライズをするということは、大事なものを取りこぼしてしまう危険性がはらんでいるわけだ。

男だからこうとか、女だからこう、という物言いはすごく危険だし、大方の場合その物言いは単なる偏見の助成しているだけのことも多い。

確かに人間を「属性」にしてしまい語ってみせるのはすごく簡単だし、読み物でそれをやるとけっこう気持ち良いものである。

でも、安易なカテゴライズは、その要素からはみ出た特性をすべて切り捨ててしまう残酷さがあるわけだ。

そこに対して意識であるかどうかは、今文章にして何かを語るうえで、かなり重要なことのように思うのである。

特に音楽について語る場合、カテゴライズをするということは、相当に慎重にやらないと危険なことになる。

少なくとも、それ以外の要素を切り捨ててカテゴライズして語る話法は、そこから切り捨てたものに対して敏感な人たちから批判される覚悟をもって、言葉にしないといけないと思う。

そして、ここが重要なことだが、これは知識の話とかではなくて、気付きの話だと思うのだ。

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千鳥の相席食堂の話

最近、自分は千鳥の「相席食堂」にハマっている。

芸能人がロケにいった映像を観ながら千鳥が突っ込んでいく、というシンプルな番組なのだが、なぜこれが面白いのかといえば、千鳥がVTRに色々とツッコんでいくからである。

普通にVTRを観ているだけならスルーしそうな(ボケの)要素を丁寧に拾っていき、その要素に対して的確な言葉でツッコんでいくわけである。

このツッコミの流れにあるのは、「気付き」の精神だと思うのだ。

普通の人ならスルーしそうな要素を丁寧に拾っていき、時にフォローを入れることで、そのVTRに文脈を作っていく。

そういう面白さが、あの番組にあるのだ。

そう。

「気付き」の精神が全開になっているから、あの番組が面白いと僕は思うのである。

音楽の話に戻そう

そういう意味では、音楽作品も似ている部分があると思う。

千鳥の「相席食堂」でいうところのVTRが音楽作品なら、我々音楽リスナーは千鳥と同じようにツッコむ側の存在である。

ここでいうツッコミとは、「ちょっと待ってぃ〜」と文字通りにツッコむというわけではなく、ここが良いとか、ここがなんか変な感じがするとか、そういう「気付き」を作っていく一連の流れのように思うのだ。

ひとつの音楽に作品に対して、どれだけの気付きを見つけることができるのか。

その気付きの数こそが、その人の感性なのだと僕は思う。

そして、「気付き」を作るうえで、カテゴライズというのは武器にもあるし、邪魔にもなってしまう。

なぜなら、カテゴライズというのは、ものの見方を固定化させてしまう恐ろしいものだからだ。

仮に、HIPHOP=ワル、というカテゴライズの眼差しで音楽作品に触れていくと、いつしかそれだけしか見えなくなってしまい、その枠組みを超える気付きを発見することができなくなる。

もちろん、ワルというカテゴライズの中で細かい要素は見つけることができるかもしれないが、そこで取りこぼしてしまうそれ以外の気付きの数は、あまりにも膨大で勿体ないことだと僕は思うのだ。

まとめ

もう一度言う。

この「気付き」とは、知識の話ではない。

どこの部分に自分のアンテナが引っかかるのか?という感性の話なのである。

むしろ、この感性は知識によって邪魔をされることが多い。

こういうジャンルの音楽はこういうものだという、知識という名のカテゴライズが、大事なものを見落とすように自分の感性に誘導をかけてしまうからだ。

気付きを失ってしまった人間の待ち構えているのは「鈍感」という名の烙印だ。

音楽を聴くときくらいは、なるべく「鈍感」になることを避けて、「敏感」なモードになって、色んな気付きを見つけたらいいと思う。

きっとその方が、音楽を聴くことに対する、楽しさに満ち溢れている。

そのように思うから。

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