2017年は酉年だし、今は冬なので、BUMP OF CHICKENの「スノースマイル」の歌詞について考えてみたい。

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作詞:藤原基央
作曲:藤原基央

冬が寒くって~理由になるから

「冬が寒くて良かった」と思うことなんて今までなかったぞ!とお思いの方も多いかもしれないが、少なくともこの歌の主人公はそう思ったのだから許してやってほしい。

ちなみに、このフレーズだけ読むと、カップルである男女の甘酸っぱい恋愛ソングのように読めるのだが、藤君はこの歌は「恋愛歌」ではないと公言している。

ということは、この描写は何らかの比喩であることが想定されるわけだが、果たしてどんな比喩となるのか。

歌詞の続きをみてみよう。

「雪が降ればいい」と~ 楽しそうなの?

ここでわかるのは二人のもとにはまだ雪が降っていないということ。

そして、この主人公は雪が降ることを切望しているのだが、決して雪は降らないということである。

まだ道に落ち葉が落ちているということは、12月ごろなのだろうか。

口では文句ばっかり言っているのに、手を繋いで歩いていることが嬉しいのか、楽しそうにしている君。

この光景を想像すれば、やっぱり恋愛ソングのようにみえる。

何ともいじらしい瞬間ではないか。

歌詞の続きをみてみよう。

まだキレイなままの~雪の無い道に

キレイという言葉をカタカナにしているところと、雪が降っていないはずのこの場所でわざわざ「雪の絨毯」というワードを使っているところがポイントである。

もしここが銀世界であれば、雪の絨毯に足跡の平行線が刻まれる描写はすんなりと想起できるが、先ほどの歌詞にもあったように、この場所に雪は降っていない。

もちろんこの後のフレーズで、それは夢物語であることを述べるわけだが、なぜこんなことをいちいち強調したのだろうか。

そんな夢が叶わなくても君と一緒なら笑顔がこぼれてしまうよ、ということを報告するためだろうか。

でも、その想像は間違いであることが、次のフレーズで判明する。

2番の歌詞をみてみよう。

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二人で歩くには~振り返る君の居る景色を

ひとつのポケットにふたつの手を突っ込んで歩いているのだから、そりゃあ普通よりは歩きにくいと思う。

そんな状態で歩くことにコツもクソもないだろうと思うし、おまけにこの答えは歌詞中で開示されない。

おそらく君の歩幅は狭いので、僕も君の歩幅に合わせて歩く、つまり歩くスピードを遅くして合わせることが「コツ」なのだろうけど、そんなもんコツでも何でもないだろうとも思う。

さて、ここでポイントとなるのは、君の居る景色を振り返るというフレーズである。

振り返るのは僕である。

手を繋いでる僕が振り返って、君の居る景色を見る、というのはカメラアングルから考えて少しおかしくないだろうか。

まるで、二人で手を繋いでる景色を別の僕が見ているような感じである。

つまり、手を繋いで歩いている二人という景色は幻であり、僕の頭の中にあるニセの景色なのではないかという想像。

それが意味することとは、つまり…。

歌詞の続きをみてみよう。

まだ乾いたままの~そんなの わかってる

空のカーテンとは、要は空が曇っているということだと思う。

青空が見えず、灰色の雲に覆われているイメージ。

二人で鳴らす足音のオーケストラというのは、一番の歌詞に出てきた落ち葉を踏みしめる音のことなのか、はたまた、ここにはない幻の雪を踏みしめるときの音のことなのか、はたまた、どこかで出来た水たまりを飛び込んだときの音のことなのか。

天気の描写はされていないが、空が曇っているということは、実は雨が降っている可能性もあるわけで、その水に濡れることを「オーケストラ」と表現している可能性もある。(まあ、雲のカーテンが乾いているのだから、そこから何も降ってはいないと思われるが)

どの音であるにせよ、このフレーズ自体が「夢物語」であるということ。そこがポイントだ。

雪が降ることだけが夢物語ではなく、二人でオーケストラをすることさえも「夢物語」なのだ。

君はもうここにいないことが、ここではっきりとする。

「笑顔は君がくれる」とは、君のことを考えると僕は笑顔になれるということなわけだが、君と一緒にいるから笑顔でいるわけではないということ。

君のことを考えたら笑顔にはなれるんだ。

そんなことはわかっている。

けれど、裏を返せば、ここではもう僕は君と一緒に何かをして笑顔以外の感情をもらうことができない(例えば、喧嘩したり同じように涙を流したりすること)はできないことを暗示するわけだ。

思い出はキレイなままだけど、それ以上の記憶を紡ぐことはもうできないのだ。

続きの歌詞をみてみよう。

まだキレイなままの~僕の行く道を

夢物語の前につく修飾語が「そうさ」という言葉に変わる。

君と一緒にいることすら夢物語であることを告白したのだから、ふたりで一緒に雪の道を歩くことなんて、とんでもない「夢物語」だというわけだ。

今さら「夢物語」であることを指摘するのも憚れるが、それでも最後の最後までこれが「夢」物語であることを強調する。

けれど、主人公は悲しんでいるわけではない。

君のいない僕は、ちゃんと君から次に行く道を教えてもらっているからである。

それは君の笑顔から見つけたものだ。

つまり、君との思い出が次の僕の道しるべになっている。

スノースマイル=雪のような笑顔

それは冬が終わればなくなってしまう笑顔であり、冬という季節が終われば別れを告げなければならない笑顔だったのである。

春になってできる新しい道。

それは、まるで進学や新天地を匂わせる「新しい道」である。

こう読んでいくとわかるが、実は「ロストマン」なんかと通底する部分がある。

歌詞の続きをみてみよう。

君と出会えて~君の居ない道を

君との出会いを肯定的にとらえる主人公。

そこにもう君はいない。

けれど、君との思い出は心の右ポケットにしまって(大事に記憶の奥にしまって)歩き出すのである。

同じ季節が巡るということは、あれから1年が経ったということなのかもしれない。

また冬になったけれど、今年の冬は、もう君がいないのである。

ところで、この「君」とは何者だろうか。

恋人のようにみえるけれど、恋人ではないとすれば、どんな仮説が立てられるだろうか。

ここを考える上でポイントなのは、この歌における「冬」というものと、「雪」というものの扱いである。

この言葉たちはそもそも何を意味しているのだろうか。

「天体観測」であれ、「ロストマン」であれ、藤くんは常に己の内面のことを歌ってきた人間である。

それを考慮すると、この歌も今の僕ともう一人の僕のことについて歌われた歌なのではないかと想像ができないだろうか。

雪の絨毯のことを「綺麗」ではなく「キレイ」と表現しているということは、ここに比喩を忍ばせていることの暗示である。

雪の絨毯というものを、この主人公の人生そのものと捉えてみたらどうだろうか。

この主人公は辛いことがあり、人生はまるで雪が降る厳しい寒さのように辛いものだった。

けれど、「ラフメイカー」が心の扉を叩いたように、「君」という人物がこの主人公の冷たい悲しみの冬を終わらせるためにやってきたのだ。

だから、雪の絨毯を歩くというのは、人生を歩んでいくという言葉と同義なのだ。

これから人生に足跡をつけていくから、まだ雪の絨毯はキレイなのであり、きれいを「綺麗」ではなく「キレイ」と表現するのは、そういう理由だから。

そして、主人公が悲しみから立ち直り、君が消えたのだ。

僕の代わりに笑ってくれた君は、僕の悲しみを背負いこんで、僕に笑顔をくれたのである。

それこそ、「ラフメイカー」では僕と君の出会いを書いたわけだが、「スノースマイル」はそうやって出会った僕と君との別れの部分が主題と考えたら、想像しやすいのではないか(もちろん、ふたつの曲は別のことについて歌っている歌ではあるが)。

つまり、僕が悲しみから克服し、笑顔を取り戻すための歌、というような言い方をするのが、この記事の答えとなるだろうか。

もちろん、これが正しい答えだとは思わないけれど、本質として己の内面について歌われた歌という解釈は間違いないではないと思う。

そして、その本質は「アリア」や「アンサー」でも同じように受け継がれ、歌われているのである。

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