2016年9月28日に発売される米津玄師の新曲「LOSER」。

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米津玄師はその歌にどんな意味や想いを込めたのか、歌詞を分析して考えてみたい。

作詞:米津玄師
作曲:米津玄師

1番の歌詞について

いつもどおりの通り独り こんな日々にもはや懲り懲り
もうどこにも行けやしないのに 夢見ておやすみ
いつでも僕らはこんな風に ぼんくらな夜に飽き飽き
また踊り踊り出す明日に 出会うためにさよなら

今回のMVによって、米津は曲が書けて歌えるだけじゃなくて、踊ることもできる才能人であることがわかったが、それでも米津は常にどうしようもないくらいに孤独を抱えている人間なわけである。

その気になればチヤホヤされるような人生を歩むことだってできそうなはずなのに、どうしようもないほどの孤独感を抱えているからこそ、米津の歌詞は刺さるわけだし、同じような心を持った多くの人を魅了するわけである。

一人ではなく、独りという言葉でそれを表現するあたり、この歌詞にもそんな思いが色濃く滲んでいる。

でも、孤独な人だって本当は好きで孤独を選んでいるわけではない。

人と「合わせよう」とすることに疲れてしまうし、上手に「話の旨い人」を演じることができず、ゆえに過剰に相手のことを考えてしまい余計に上手く喋ることができないループに迷い込んでしまうからこそ、孤独になってしまう人はわりと多い。

だから、孤独である日々は懲り懲りなんだけど、かといって、どこにも行くことができずに結局は寝ることを選択するわけである。

ただ、米津はこの歌を自分と聴き手に対して向けた歌だと考え、かつ孤独である人たちのための歌であると考えているからこそ、歌の人称は「僕ら」という複数形を使うのである。

でも、そんな孤独な夜のことをぼんくらな夜と形容しており、今と違う未来を切望していることがひしひしと伝わる。

その決意のバトンは、次のフレーズに紡がれていく。

歩き回ってやっとついた ここはどうだ楽園か?
今となっちゃもうわからない
四半世紀の結果出来た
青い顔のスーパースターがお腹空かしては待ってる

孤独に夜の通りにいた主人公ができることは歩くことのみだった。

で、歩き続けた果てに新しい場所に出たのだろう。

ちなみに四半世紀とは25年のことであり、米津は今25歳なので、ぴったりとリンクするのである。

ということは、青い顔のスーパースター=米津ということだろうか。

この辺りのフレーズは、音楽だけを信じて色々と活動を続けてきて、それなりにたくさんの人に聴いてもらえるようになったけども、いま行き着いた場所(地位)は楽園だろうかと自問をしている米津自身の姿が見え隠れしているように感じた。

今の場所や地位が正しいかどうかはわからないけれども、正しいことを信じて待っているように見えるわけだ。

アイムアルーザー
どうせだったら遠吠えだっていいだろう
もう一回 もう一回行こうぜ 僕らの声
アイムアルーザー ずっと前から聞こえてた
いつか ポケットに隠した声が

傍目からみたら勝ち組見える米津は自分のことをルーザー=負け犬と称する。

犬だから次に「遠吠え」というフレーズが出るわけだが、自分が歌うことを「遠吠え」と表現しちゃうのは日本でも米津くらいではなかろうか。

ここでポイントなのは日本語の人称は「僕ら」を使うのに、英語のときはWeではなくアイアム(I’m)を使っている点ではなかろうか。

「僕ら」というのは米津と聴き手を含めているからと考えることができるわけだが、負け犬にしておくのは自分だけで十分だということだろうか。

もっと言えば、この歌を聴いているあなたたちは負け犬でないよ、としっかり線引きしていることだろう。

俺は負け犬だけど、みんなは違うから大丈夫だよ、と言わんばかりに。

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2番の歌詞について

ああだのこうだの知ったもんか 幸先の空は悪天候
ほら窓から覗いた摩天楼からすりゃ塵のよう
イアンもカートも昔の人よ
中指立ててもしょうがないの
今勝ち上がるためのお勉強 朗らかな表情

幸先とは前兆とか事を始める際の何か感じることとかそういう意味になる。

要はもう一回行こうぜと決意を新たにしたはずなのに、いきなり空は悪天候で何か悪いことが起きそうと予感するわけである。

摩天楼=天に届かんばかりの高い建物、つまり人生の比喩みたいなものであろう。

そういう広い視野からみれば、そんな悪天候なんて塵のように大したことないはずだと公言するわけである。

カートはたぶんカート・コバーンのことだと思うが、イアンという名の有名ロッカーはわりと多い。

孤独ということとリンクすることを考えれば、イアン・カーティスのように思われるが。

まあ、いずれにせよロックのレジェンドの名前をあげていることは間違いないのだが、その人たちは孤独から這い上がり、有名になってお金を稼ぐことになった人たちで、いま本気で孤独な人からすれば「中指をたてる」存在なのかもしれない(人によると思うけど)。

まあ、成功した人を妬むのではなく、朗らかな表情で自分なりの努力していこうよ、と言っているのではなかろうか、この片のフレーズは。

踊る阿呆に見る阿呆 我らそれを傍から笑う阿呆
デカイ自意識抱えこんではもう 磨耗
すり減って残る酸っぱい葡萄
膝抱えてもなんもねえ ほら長い前髪で前が見えねえ
笑っちまうねパッと沸き立って
フワッと消えちゃえるこんな輪廻

理由は簡単でみんな阿呆なのであり、「賢い人」なんていないと米津は言っている。

阿呆に見える人を阿呆と思っている自分だって阿呆なんだよ。それなら阿呆を受け入れて行動起こす人間が勝ちじゃんというわけだ。

自意識をデカくして磨耗して、酸っぱい葡萄みたいになるのは間抜けだともいうわけである。

膝かかえて行動しないでいたら、輪廻なんて消えちゃうよというわけである。

簡潔にいえば、細かいことなんて気にせずどんどんと行動しようぜ、という話。

だって、君たちは負け犬じゃないんだから、と。

愛されたいならそう言おうぜ
思ってるだけじゃ伝わらないね
永遠の淑女もそっぽ向いて 天国は遠く向こうのほうへ
ああわかってるって 深く転がる 俺は負け犬
ただどこでもいいから遠くへ行きたいんだ
それだけなんだ

ただ孤独を嘆くのではなく、孤独が嫌ならばせめて「愛されたい」と周りにメッセージを放つことが大事だという米津。

思っているだけじゃ伝わらないというのはあまりにも的確な叱咤ではなかろうか。

淑女とは品位のある女性、いわば女神みたいなもんという感じ。

そんな人ですら、黙っていればそっぽ向いちゃうし、天国だって遠くの方にいってしまうと言っている。

これほどまでに頭でっかちで行動しない人に対してお説教をくらわすなんてすごい。

おそらくは負け犬である俺だって行動したら、「それなり」になれたのだから、負け犬ではないみんななら、もっと上を目指せるよという話なのだと思う。

ただし、負け犬だって負け犬なりに「動いた」からこそここまで来れたわけであり、それは「転がる」という無様な動きであろうとも、動くことを続けてきたがゆえの結果なわけだ。

とにかく「動く」ことがなによりも大事なんだとここで力説するわけである。

Cメロ~大サビについて

耳をすませ遠くで今 響きだした音を逃すな
呼吸を整えて
いつかは出会えるはずの 黄金の色したアイオライトを
きっと掴んで離すな

アイオライトとは天然石のことである。

まあ、これはひとつの比喩であり、希望とか夢とか愛とかの例えなのであろう。(黄金という修飾語が付いているわけだし)

みんなも、きっとそういうものに出会えるはずだ。

だから、出会ったら絶対にそれを離すなよ、というわけである。

アイムアルーザー
なんもないならどうなったっていいだろう
うだうだしてフラフラしていちゃ
今に 灰 左様なあ
アイムアルーザー
きっといつかって願うまま
進め ロスタイムのそのまた奥へ行け

今が人生のロスタイムだとしてもいいじゃないか。

うだうだしてフラフラしているだけなら灰になる(要は死んでしまう)だけなのだから、願いながら行動しようぜという話である。

愛されたいならそう言おうぜ
思ってるだけじゃ伝わらないね
永遠の淑女もそっぽ向いて 天国は遠く向こうのほうへ
ここいらでひとつ踊ってみようぜ
夜が明けるまで転がっていこうぜ
聞こえてんなら声出していこうぜ

どう「動けば」いいのかわからないなら、せめて「踊ろう」というわけである。

身体を動かすことがまずはなによりも大事なことであり、自身を負け犬だと自称する米津だからこそ「行動できない人」の悩みとか苦悩とかがわかっており、逆に言えば、身体を動かすことの大切さもなおのことよくわかっているから、それを勧めるわけだ。

声もだせたらなおよし、といっている。

アイムアルーザー
どうせだったら遠吠えだっていいだろう
もう一回もう一回行こうぜ 僕らの声
アイムアルーザー ずっと前から聞こえてた
いつかポケットに隠した声が

ここいらでひとつ踊ってみようぜ
夜が明けるまで転がっていこうぜ
聞こえてんなら声出していこうぜ

ポケットに隠した声とは胸の中にしまった己の夢に対する本音というふうにも解釈できる。

それはずっと前から聞こえてたはずで、本当は自分がどのように「動きたい」かもわかっているはずだというわけである。

綺麗に動く必要はない。

最初は転がるくらいでもいいじゃないか。

動こうよ。できれば、声も出しながら。

そしたら、ただの孤独なだけの人生に光は指すから。

負け犬の俺に少しは光が差したように。

君の人生に光は必ず指すから。

米津は聴き手と本気で向き合いたいと思っているからこそ、ここまで辛辣な言葉を並べているのだと思う。

やったことのないダンスにチャレンジしたのも、そういう理由からなのかもしれない。

ハチっぽいサウンドにしたのも、米津の過去(孤独な過去)を少しでも意識させるような作りにしたかったからなのかもしれない。

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