スピッツの「歌ウサギ」の歌詞について書いてみたい。

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作詞:草野正宗
作曲:草野正宗

イントロの話

この歌のイントロってアコギのアルペジオで始まるわけだけど、ふたつの音をアルペジオで鳴らした後に、16分のギターストロークを3回入れて(音を鳴らさないかましも含めてのカウント)、その裏にアコギと同じテンポで、オルガン(?)の音を入れてるわけだ。

コードはE→B→G#m→C#m→A→Bとか、たぶんそんな感じ。

KEYはB。
BPMはおよそ90。

鳴ってる音はふたつで、コードも決してトリッキーではないけれど、そのシンプルさが妙に切なくて儚げな気持ちにさせる。

この切ないイントロにより、聴き手は色んな想像をするわけだ。

ただ、何よりも凄いのは、このイントロの後の最初のフレーズが「こんな気持ち」というところにある。

代名詞始まりなわけだ。

これの意味するところは、冒頭の「こんな気持ち」の「こんな」の中身は、このイントロに全て託してしまったというわけである。

イントロの信頼感が絶大なわけだ。

ここまでイントロを信頼して、そのまま歌詞に結びつけてしまうなんて、はっきりいってなかなかできない。

これって、最近のスピッツが「醒めない」や「1987→」なんかで、口酸っぱく述べている、「俺たちはロックバンドなんだよ」と何度も宣言していることと話が繋がるように感じる。

というのも、近年のロックはフェス文化も相まって、盛り上がることだけを志向するようになってしまいがちである。

そうなると、ロックという代名詞に胡座をかいて、音に対する情緒というか、音の詫び寂びみたいなものを無視してしまうようになるわけだ。(歌詞に対しても同じように言えるわけだが)

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マサムネはじめスピッツ一同は、そんな風潮に「待った」をかけるべく、ロックバンドによる音の詫び寂びというものを食らいやがれ!と言わんばかりに、このイントロを作ったのではないか、と思うわけである。

そういや、この歌の末尾にある「何かを探して何処かへ行こう」とかそんなどうでもいい歌ではなく、なんてフレーズも、この価値観と通ずるものがあるように思う。

最近のマサムネは「俺が引っ張っていくから感」を強めているが、この部分にもそういう意識が反映しているのかもしれない。

話は脱線したが、言いたいことは、このイントロはとにかく素晴らしくて、聴き手の想像力をはためかせる力に溢れている、ということ。

だって、このイントロだけで歌詞の冒頭の「こんな気持ち」はもちろんのこと、僕という主人公がどんな人物なのかや、僕と君はどんな日々をこれまで過ごしてきたのかまでを想像させてしまうのである。

どういうことか?

例えば、このイントロは最初、単音を鳴らすわけだが、これはそのコードのルート音である。

そして、次にその下の弦を弾き、最後は一番下の細い弦を複数まとめて弾いている。

言ってしまえば、アルペジオ的には雑なわけだ。

スピッツでいえば、「ホタル」のアルペジオなんて凄く計画的にアルペジオされており、音数も細かい。

あのイントロはああすることで「なんだか冷たい感じ」を伝わるようにしているわけだが、「歌ウサギ」は頑張ってアルペジオをしようとするが、途中で諦めて一気に音を鳴らしてしまい、次のコードに移って次こそはちゃんとしようとアルペジオを始めても、またグチャグチャになってしまう「上手くいかない感」をあえて全面に出している。

これにより、少なくともこの歌の「僕」は器用な人間ではないことや、「こんな気持ち」の「こんな」とはネガテイブよりな感情であること、そして気持ちに取り留めがないサマを浮き彫りにさせるわけだ。

この歌は、言葉にする必要のない部分は全て音で表現している、という話である。

歌詞における人称の話

この歌の一人称は「僕」である。

だけど、マサムネは「俺」と「僕」を使い分けるタイプのアーティストである。

みていくと「俺のすべて」だったり「ハイファイ・ローファイ」だったり、夏な感じが強くて、「あー恋愛してなー!」みたいな性欲が強い感じを出す場合は「俺」という一人称を使うことが多い。

一方、性欲よりも気持ちとか心とかを大切にするテイストの(要はもう彼女がいるので、恋愛したい!というよりも君を大切にしたい!というテイストの)歌だと「僕」を使うことが多いように感じる。

当然、「歌ウサギ」は僕と君の気持ちを丁寧に歌った歌なので、「僕」という一人称を使っている。

さて、スピッツの歌は「君」も出てくるわけだが、往々にしてこの「君」にすぐに死亡説が出てしまう。

「夏の魔物」でも「青い車」でも、すぐに死のイメージがまとわりついてくる。

今回はどうだろうか?

「さっき君がくれた言葉」というフレーズが出てくるが、この「さっき」がどういう時制を表す単語と捉えるかで、ここの回答は変わってくるように思う。

が、ここだけみてもわからないので他のフレーズをみていくと、実にヤラシイフレーズが見つかる。

フタが閉まらなくて
溢れそうだよ
タマシイ色の水
君と海になる

フタとタマシイをカタカナにしているのは、ここが比喩であることを示すためである。

では、何の比喩と考えられるか?

「フタが閉まらない」というのは想いの話であり、君に対する想いはフタをしても溢れてしまうよ、ということなのだと思う。

それだけ想いが強いことを表現しているわけだが、当然ながら想いは形のないものであり、本当に蓋をすることはできないので、比喩であることをアピールするために「フタ」とカタカナ表記しているわけである。

「タマシイ色の水」とは水の色を示す言葉というよりも、その水の想いの強さを示す言葉なのだと思う。

感情がピークになると出てくる水といえば、涙である。

そう考えると、タマシイ色の水=涙と捉えられるのではないか。

「君と海になる」とは、君と一緒に泣くということであり、=ちゃんと君と生活に送れていることを示すフレーズとなるわけだ。

つまり、彼女は死んでいない。

*もちろん、海が死を連想させるフレーズではないかという解釈もできるが、ここではその可能性は検討しないでおく。

ところで「耳たぶ」はカタカナにしていないところをみると、本当に「耳たぶに触れた感動を歌い続けたい」と主人公が思っていることがはっきりとわかる。

まとめ

この記事では、あえてこの歌詞は「こういうメッセージなのだ!」みたいな結論は出さないようにしておきたい。

なぜなら、この歌は「安易に答えを出さないことに対する美徳」を歌った歌だからだ。

それでもあえて、この歌のメッセージをひとつ結論づけるとしたら、こう言えるのではないだろうか。

「ロックとか恋愛とかの与える想像力って、無限大の可能性に溢れていて、この歌もまたその可能性のひとつなのである」

この歌は僕の気持ちを歌った歌なのに、その気持ちのことに関しては「こんな気持ち」という代名詞を使うことで、あえて結論から逃げているわけだ。

ここに本当は何を当てはめることができるのか?

その想像ひとつひとつがこの歌の可能性であり、たくさんの可能性を育むこと(色んなはみ出しものを救うこと)が、本来の「ロック」の役割ではないこと思うわけである。

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