スピッツの歌詞について考察してみたい。

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1998年にリリースされた8枚目となるフルアルバム「ファイクファー」に収録されており、その後シングルカットもされた名曲中の名曲である「楓」について取り上げてみたい。

この歌もマサムネの書く歌詞としてはとっつきやすい歌詞であるが、果たしてこの歌詞にはどんな意味が隠されているのであろうか。

作詞:草野正宗
作曲:草野正宗

忘れはしないよ〜なっていたこと

冒頭からなんだか暗い。

いきなり君とはもう別れてしまったことを示唆する言葉が登場する。

心のトゲを丸くしてくれる(要は君といれば穏やかな気持ちになるということだろう)、いたずらなやりとり(要はイチャイチャしたりしていたのだろう、つまり君とは恋人である可能性が高い)をしていた君となぜ別れることになったのか疑問がよぎる。

忘れはしない、と書いていることから、すでに君と別れてそれなりの時間が経っているように感じる。

一体なにが起こったというのだろうか。

かわるがわるのぞいた〜夢もあったけれど

かわるがわるのぞいた穴とは何だろうか。

穴から見ていたものを教えてくれないと、これが何なのか判然としないが、予想をたてるしかない。

何を見てたかな?と僕が尋ねているということは、穴をのぞいていたのは君であるということだ。

そして、のぞくための「穴」は季節や時期によって変動するものであることだけはわかる。

なんとなくであるが、君の瞳のことを「穴」と表現しているような気がするのだが、どうだろうか。

君のまなざしという言い方をした方がお洒落かもしれないが。

次のフレーズである、一人きりじゃ叶えられない夢、であるが、この夢とは「あったかい家庭を築き上げる」とか「かわいい子供をつくり育てる」とかそんな感じのことなんじゃなかろうか。

そして、サビに入っていく。

さよなら〜どこまで届くだろう

ついに「さよなら」を明言したので、君と別れたことが確定である。

君の声を抱いていく、とは君の思い出を大事にして今後も生きていくということなのだろうが、単純に恋人と別れただけなのであれば、そこまでするのはおかしいと思うだろう。

ということは、スピッツのことだから、君とは死別したのではないかと予想がたてられる。

死別していない恋の別れであるチェリーの場合、思い出となる喜びはつぶれるほど抱きしめたい(なんとか消し去りたい)としているわけなのだから、やはりおかしいことがわかる。

ちなみにチェリーの歌詞考察はこちらである。

そして、次の僕のままでどこまで届くだろう、というのが実に意味深なフレーズである。

何をどこに届けようとしているのだろうか。

僕のままで、ということは届けようとしているものは変化してしまうものであるということだし、どこまでといっていることから届けようとしている場所は僕がいまいる場所からずいぶん遠い場所であることがわかる。

ここで考えれるのは、天国。

君はすでに天国にいて、僕の形に近い状態でなんとか思い出の鮮度のようなものを届けたい、というニュアンスなのかもしれない。

が、あまり前半で明言しすぎるのは良くないので、2番のフレーズをみてみよう。

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探していたのさ〜あの日まで

探していたものが何なのか明示されていないが、なんとなくそれは「愛」に近いものであることが想像される。

懐かしい言葉とは「愛している」とかそんな感じだろうか。

君と出会ったことで愛を見つけられたからもう愛を探す必要はなく、(つまり、君を本気で愛していたわけだ)君と別れてからそれなりの歳月が経つから、「愛している」をいうこともなくなって、それは懐かしい言葉になってしまったのだろう。

ガラスの向こう、と表現していることから、おそらく窓越しで水玉の雲を見ていたのだろうが、(これで僕はいま部屋の中にいることがわかる)実際に僕が水玉の雲を見ているとともに、それはひとつの比喩にもなっているはずだ。

散らかっていたあの日まで、というのは、君と出会うまでのめちゃくちゃだった僕の日々を指しているのであろう(君と会うまでは僕は荒れていたのかもしれない)。

探していたのさ、と振り返っていることからもそれがわかるだろう。

君と出会う前のことを回想しながら、君との思い出をたどっている場面なのだ。

で、水玉の雲は君と会う前の日々と、君とあってからの日々、そして君がいなくなった日々を繋げるものとして登場している。

それぞれの日々は目でみえれば繋がっているが、それぞれ実は断絶しており、その距離感みたいなものをガラスとして例えている。

雲はすぐに消えてしまいそうなものの象徴であり、本当は記憶でつながっていたはずの日々はいま途切れようとしており、それをなんとか水玉の雲がつなぎとめているようなイメージ。

だから、雲は積乱雲とかではなく、水玉の雲なのである。

風が吹いている〜信じていたのに

タマシイをカタカナにしたのは死別をテーマで扱っているゆえ、霊魂的な魂と混同しないようにするためである。

ここでいうタマシイとは思いとか決意とかそんなニュアンスであろう。

要はおれももう少ししたら君と結婚して、幸せな家庭を築いていくんだ、みたいなことをかるーい気持ちで考えていたのだろう。

なのに、突然それは叶わない夢になってしまったわけだ。

これから〜どこまで届くだろう

1番と似たようなフレーズのサビであるが、言っていることはまったく違う。

先ほどは僕と君のことについて語っていたが、このフレーズでは君を不在のものとして表現されている。

君がいなくなった僕はやがて君以外の誰かと恋愛をする。

でも、そのとき、僕は偽ってその人のことを愛しているふりをするのだろう。

君のことを忘れるなんてできないから。

その人はどこまで僕のままでいさせてくれる人なのだろうか。

そもそも、はたしてそんな人に出会うことができるのだろうか、いや、できないだろう。

みたいなニュアンスのフレーズになっているわけである。

瞬きするほど〜聞こえる?

瞬きとはとても一瞬のことなのに、それを「長い」と形容する歪さがここにはあるが、これは一旦置いておこう。

季節とはいつのことなのか気になるところであるが、これは歌のタイトルともなっている楓を考えてみれば、わかるだろう。

楓は紅葉のイメージが強く、秋の季語にもなっている。

ゆえに、この季節とは秋、しかも晩秋を指している可能性が高い。

そして、次のフレーズであるが、名前を呼び合っているのは僕と君だろうか。

聞こえる?と尋ねているのは僕から君に対してであろう。

でも、どういう状態なのか少しイメージがしにくい。

だって、僕と君は別れてしまい、離れているのだから。

声の届くような距離にいないはずなのに。

このフレーズも一旦おいてしまって、先に最後のサビをみてみよう。

さよなら 君の声を〜ああ 君の声を…

ここで気になるのは、僕はどこかに向かっているということである。

先ほどのフレーズで、聞こえる?と尋ねていることから僕は君に近づこうとしている雰囲気が漂ってくる。

しかもなるだけ僕のままであるようにして君に近づこうとしているような。

おまけに最後のサビは途中で終わっている。

これは途中で、僕が意識をなくしてしまっているかのように見えないだろうか。

ここで予測をひとつたてる。

僕は死んだ君に会いに行こうとして、僕も死んでしまったのではないか、と。

つまり、僕は死んでしまうため、サビの途中で言葉が中途半端なところで途切れてしまい、文字通り魂になってしまうから、本当なら瞬きをするほど一瞬で過ぎ去ってしまうはずの季節も「長くなってしまう」わけだ。

だって、僕はもう死んでしまうから、季節が変わることもなくなってしまうわけだ。

そして、「さよなら」とはずっと僕が君にむかって言っているものだと思っていたかもしれないが、実はこれ、君以外の人に対していっている言葉なのだ、と捉えたら全ての辻褄があう。

つまり、僕は君に会うために今から死ぬよ、今までお世話になったお父さんお母さん友達各位、みんなさよなら。僕は君の声を抱いて天に昇っていくよ。僕のままでなんとか天国までのぼって会えたらいいなあ。

と思っているわけである。

けれど、こんなわがままな理由でこの世を去る僕が簡単に君といる同じ天国にたどり着けるなんて思ってもいない。

もしかしたら地獄に落ちる可能性だってある。

だから、僕のままでどこまで届くだろうと自問しているのだ。

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