サザン、ミスチルはじめ、彼がJ-POPに果たした功績はとても大きい。

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けれど、邦ロックにコバタケは合わない。

そんな通説がそろそろが囁かれそうなくらい、個人的にはACIDMANも、SHISHAMOも、彼のプロデュースに楽曲がハマっていなかった。

まあ、個人的な感想は置くにしても、今のところ、上記のバンドに限って言えば、彼が関わった曲がキャリアの屋台骨になるような状態になっていないことは確かである。

コバタケがアレンジを担当すると、コバタケ色が強く出てしまい、「バンドの良さ」が消えてしまいがちになるという話がある。

バンドサウンドがウリのバンドの音をコバタケ色に染めてしまうのは、本末転倒なのではないか?そんな指摘もある。

コバタケのアレンジは良くも悪くも90年代なフォーマット感があって、それが「邦ロック」には、あんまり合わないのかなーと思ったりもする。

アゲハスプリングス系のアレンジャーなんかは、良くも悪くも「意欲的なアレンジ」をする人が多いわけで、そこと比べると「懐メロ」感がどうしても出てしまうというか。

まあ、その話は置いておこう。

ここで考えたいのは、ACIDMAN然り、SHISHAMO然り、なぜコバタケが関わった曲が、そのバンドのキャリアの骨豚になるような状態にならなかったのか?ということだ。

この記事では、その「なぜ」について掘り下げていきたい。

そもそも、コバタケのアレンジはバンド側にどういう役割を与えたのか?

コバタケアレンジによってバンドサウンドはどう変わったのか?という話である。

もちろん、ストリングスが入ったとか、曲が妙に壮大になったとか、色んな切り口があるわけだけど、コバタケのサウンド構築として大きい要素は「楽曲のメリハリをつけること」だと思う。

楽曲の起承転結を明確にさせるというか。

メロはしっとりとさせて、サビはがつーんと盛り上げるようにアレンジするというか。

ジブリ映画をディズニー映画に仕立てあげるような、そんな感じ。

平たく言うと、楽曲の盛り上げを「わかりやすく」アレンジするわけだ、コバタケは。

で、その「わかりやすさ」とバンドの「性質」がハマるかハマらないかがポイントになるわけだ。

思えば、ACIDMANもSHISHAMOもスリーピースバンドである。

そして、コバタケと組むことでバンド寿命が縮まってしまったレミオロメンもスリーピースバンドだった。

ということは。

スリーピースバンドがコバタケと組むと、バンドのアイデンティティが崩壊してしまい、厳しい末路を迎えるのだろうか?

確かにバンドメンバーの数が少ないということは、音に隙があるわけで、その隙を縫うようにコバタケが音を埋めることになるわけで、そのバランスの壊し方があまり良い影響を与えなかったのかもしれない。

そんな仮説が生まれそうなタイミングで、待ったをかける1組のスリーピースバンドがいた。

backnumberである。

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そうなのだ。バクナンはコバタケと組んでその楽曲をヒットさて、且つ、バクナンの個性を埋没させることなくコバタケアレンジを消化している稀有なバンドである。

スリーピースバンドであるにも関わらず。

なぜ、バクナンはそれが可能だったのか?

これは、先ほど述べたように、コバタケの「わかりやすさ」とバンドの「性質」が上手く噛み合ったからだと思われる。

例えば、バクナンの歌詞はストーリー性の強いものが多い。

だから、コバタケの起承転結を明確にするアレンジもハマりやすい。

しかも、バクナンの歌詞は、徹底的に主人公の感情をテキスト化するフシがあって、歌詞の感情を明確化しがちである。

こういう性質も、コバタケのアレンジとハマりやすかったように思われる。

何より、バクナンが大きいのは、リスナーのバラードの求められ方だと思う。

そもそもなぜ人はコバタケにアレンジをオーダーするのか?

よくコバタケアレンジと聞くと、壮大なストリングスのイメージを持つ人は多い。

そして、実際、先ほど述べたバンドはコバタケにそういうアレンジをお願いしている。

けれど、彼ともっともたくさん仕事をしたミスチルの仕事を細かく見てもらったらわかるように、コバタケは必ずしも「壮大なストリングスのアレンジ」する人ではない。

楽曲にあわせて「しかるべきアレンジ」をする人である。

けれど、外部としてコバタケをアレンジャーとして招いてアレンジをお願いする歌はことごとくバラード曲であり、おそらくオーダーも「ミスチルのバラードみたいに壮大なやつ」みたいなノリのオーダーをすると思われる。

コバタケだって仕事なのだから、オーダーにあわせて然るべき仕事をする。

結果、どのバンドもコテコテで壮大なアレンジを施してしまうわけだ。

そして、それが「ACIDMAN然り、SHISHAMO然り、なぜ彼が関わった曲が、そのバンドのキャリアの屋台骨にならなかったのか?」という問いに対してのポイントになる。

要は、そのバンドのリスナーは決してそんなタイプのバラードを求めていなかったし、なんならバラードより元気の良いアップテンポの曲が聴きたかった。そういう話だと思うのだ。

バクナンはなんだかんだでバラードが求められている稀有なバンドである。

だから、コバタケアレンジでもわりとハマる。

けれど、他のバンドはそうでなかった。

そんな話なのではないかと思ったりする。

SHISHAMOの人気の曲は基本アップテンポな曲だし。

そうなのだ。悪いのはコバタケではない。コバタケでいいんじゃね?と考えた周りの大人たちなのだ。

で、つくづく思うのだが、外部アレンジャーを招くときこそ、バンドの「性質」とリスナーがそのバンドに求めているものをしっかりと睨めっこして、そのニーズを汲み取れる人を招くべきなのである。

じゃないとアレンジャーも、そのバンドも、良い結末を迎えられないだろうから。

そんなことを思いながら、SHISHAMOの「水色の日々」を聴くのだった。

良い曲だとは思うけどね。

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