昨日、公開されたんで観ました。MV。

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いや、アイドルMVかよ。

初めて観た時はそうツッコミそうになりました。

待て待て待て待て、と。

藤原さん、 確かにあんたの歌声は大好きだぜ?書く歌詞だって大好きだぜ?もちろん、メロディーだって大好きだぜ?それは間違いない。否定はしない。

でもな、あんた、来年には40歳になる男なんだぜ?なんなら、あんた、本当はバンドマンなんだぜ?

そろそろ、「藤くん」じゃなくて「藤さん」って呼ばれるモードに入ってるんだぜ?そんな大御所バンドのフロントマンなんだぜ?

なのに、なんすか。このMV。インスタ女子のストーリーすらこんなキメキメの動画上がんないすよ?ベンチ座りながらスタバらしきコーヒーを飲む最初のMVのワンカット。なんすかアレ?

いや、それいる???っていう。

もうさ、完全に幼気な女性の心(あるいは男性心)を仕留めにかかってますやん。曲がどうとかじゃなくて、ビジュアルで完全に心仕留めにかかってますやん?相撲の土俵あがったらいきなり飛び道具で攻撃するくらいの反則技じゃないですか?

そんなことを感じた初見の「話がしたいよ」のMV。

ただね、ちゃんと観ていくと、最初のワンカット、ただのアイドルMVじゃん?と思っていたシーンは、ちゃんとした「布石」だったんですよね。

あのショットがあるからこそ、ラストのショットが活きてくる、そういう構成。

この歌の歌詞の最初のセンテンスは「バスを待っている僕」を描いているんだけど、この歌の主人公に重ね合わせるように、藤くんもバス停のベンチに座ってバスを待つショットから始まるわけだ。

で、この歌って、基本的には僕と君の物語であり、僕はもう君に会えなくなり、失ってしまったことが描かれるわけだ。

そんなこの歌の主人公に藤くんを投影させるかのように、MVはショットを積み上げていく。

十字架をバックに、ギターも持たずに歌うシーンは「孤独になった主人公」を的確に表現しているし、その十字架が作る細い光の上でギリギリに立つシーンとかも象徴的なイメージを与える。

もう少しMVが進むと、メンバー全体も出演するシーンが出てくるんだけど、最初のショットでは藤くんだけに光を当てる徹底ぷり。

かなり光と陰にこだわったライディングをしていることがわかる。

一番のサビ入りまでは藤くんしか音を鳴らさないため、より「主人公の孤独感」を浮き彫りにさせているし、サビから寄り添うように他メンバーの音が入り、映像も少しずつ存在感を表していくところはポイントである。

映像パターンを大まかに分けると、屋内と屋外のショットがあるんだけど、屋外=内面描写、屋外=リアルの描写、なのかなーと勝手なことを思ったりする。

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さてさて、この歌の問題は歌詞なんですよ。

読めばわかるんですけど、徹底して鬱展開なんですね。

BUMPの歌ってあんまり「後悔」を歌にすることは少ないし、別れや後悔があってもそれをポジティブに変換していく、っていうテイストが強かったんですね。

個人的にはこの歌と親和性があるように感じる「スノースマイル」だって、君はいなくなるけれど「出会えて良かった」と前向きな一歩を踏み出すことで、切なさはそこまで感じさせない仕上がりになっているし、「supernova」とか「ray」だって、君がいなくなっても君がいるというか、ちゃんとその別れを肯定しているような暖かさがあるから、鬱展開という印象はまったく受けない。

けれど。

この歌は「君といた日々」をどうでもいいって言ってやりたいのに、どうでもいいって言うことができなくて、そんなメンタルのはずなのに、どうでもいいと言わざるを得ないような状態になっているのだ。

これ、とっても切なくないですか?

「君が何者なのか?」という考察はまた別におくとして、君という対象をこういうふうに言ってしまわないといけないBUMPの歌って、最近ではあんまりなかったんじゃないかなーと思うわけだ。

でね、そんな切ない歌詞世界感をそのまま藤くんに投影させてしまうこのMV。

それが見事だなーと。

作品世界に、より広がりを与えるのが良いMVだなーと思うんだけど、このMVはそういう広がりをきちんと与えてくれている。

だから、ただのアイドルMVのフリして、全然ただのアイドルMVじゃないわけだ。

なにより、このMVの最後のショット。

もう二度と会うことができない君に向けて歌ったこの歌の歌詞になぞってきたMVは、もう二度と君に会うことができなくて一人でベンチで待ちぼうけてる藤くんをワンショットで映す。

すると、そんな藤くんの前に最後の最後に現れたのが、たぶんこれからも藤くんとずっと一緒にいてくれるであろうバンドメンバー。

この流れ。

BUMPというバンドの物語を考えたときに、この演出は卑怯ですって。こんなん泣かせにかかってますやん。こんなんセコイのレベルを超えて卑怯ですよ、卑怯。コイキング相手にミュウツーで挑むくらいの卑怯さです。

あと、このMVの「メンバー全員で写真を撮るショット」で、ドラムの升一人だけピースを出すのが異常に早いことが気になりますが、まあそれはマジどうでもいいんで、それはスルーしておきます。

そもそも、この歌だって捉え方によっては、離れてしまった昔のファンに向けて、っていうふうにも捉えることができたりする。

話がしたくても、去ってしまったファンにはもう言葉が届かないわけで。

でも、メンバーはずっといる。

変わってしまったと言われることもあるけれど、変わらないメンバーと音楽を奏でている。

初期の歌っぽい物語テイストな歌詞なのも、心のどこかで、昔のこと、昔のファンのことを思い出したからなのかなーと思ったりして。

まあただ、MVのラストは新世紀エヴァンゲリオンでいうところの結ばれるはずのない碇シンジと綾波レイが急に学園内で結ばれちゃうパラレルワールド、みたいなイメージがあって、だからこそ、あのシーンはあくまでも曲が終わってから挟んだのかなーなんて思うのだ。

あのシーンは救いではあるんだけど、その一方で、あれは「MVだからこその救い」なのかなーと。音源の物語はこれとは違うけれど、映像の方は、観た人のために特別に救いを与えた的な。

え?そんな話、どうでもいいって?そもそもうるさいって?お前は婦女子かって?いや、そうじゃいないと言いたいけれど、そうなのかもしれない。

ごめん。切腹。

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