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僕は7割の確率で電車に傘を忘れてしまう。

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そして、2割の確率でトイレに忘れてしまい、道中に飲食店に入りでもしたら、間違いなくそこでも傘を忘れてしまう。

まあ、飲食店の場合は「あっ」って気づいてもすぐに取りに戻れるから、なんとかなるのだけども。

しかし、電車に忘れた傘はそうもいかない。

行きずりの女のように、その傘が戻ってくることはもうないのだ。

勿体無い話であるが、仕方がない。

ところで、人間とは、常に「落し物」をしてしまう生き物である。

その昔、僕は某フェスのインフォメーションをしたことがあるんだけど、本当に落し物がよく届けられてくる。

ダイバー必須のバンドが出演者にいると、落し物の数はなおのこと増える。

けれど、落とされたものの中で「落し物」としてインフォメーションに届けられるのは、ほんの一部である。

多くの「落し物」は人に踏まれ、ドロドロになって、地面と同化して「ゴミ」と化していく。

同じ落し物でも、サイフなら拾われやすいが(あるいはパクられやすいが)、飲みかけのペットボトルとかだったら、まず拾われることはない。

つまり、落し物にも潜在的な「ランク」があるということだ。

ちなみに、傘の「落し物」(というよりも忘れ物ではあるが)の場合、拾ってそのままパクられてしまう率は高いと思う。

そのまま放置されて無視されないという意味では、落し物としてのランクは高いと言えるかもしれない。

話は変わるが、モノを作るとか、文章を書くという作業は「落し物を捨てたり、拾ったりすること」と似ている。

例えば、文章を書く場合、自分の書きたいことやメッセージが脳内にあると思うが、これって、自分の頭の中にあるイメージはどの単語で表現すれば綺麗にハマるのかを想像しながら「書く」という作業を進めるわけだ。

自分の記憶の中に捨てさった単語の「落し物」をひとつずつ拾いあげて、それをピースのようにイメージの中にはめ込むわけである。

もっと言えば、何かを書こうとするときの「題材」だって、結局のところ、それはイコール記憶なわけであり、過去の自分の「落し物」を拾い上げる作業をしている、とも言えるわけだ。

何かを書くとか作るというのは、過去の自分が自分の中に捨てた「落し物」を改めて拾い上げる作業なわけである。

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モノを作るというのは、0から1にすることだなんて言う人もいるが、本当はそんなことはなくて、過去の自分が自分の中に落したものを拾い上げ、色んな落し物同士を組み合わせて、別の何かを生成する、そんな作業に近いわけだ。

計算式でいうなら2➕2=5みたいな話。

よくクリエイター志望の人に対して、今、国内で話題になっている作品だけじゃなくて、海外の作品や、昔の名作なんかにも触れたほうがいいよ、と言いがちなのは、自分の中の「落し物」を増やし、拾う選択肢を増やすためだったりするわけである。

文章を書くということもこれと同じなわけだ。

また少し話は変わるが、文章をネットに書くということは、広い意味で、誰かに「いつか拾ってもらうための落し物」を仕込む、ということなのだと思う。

文章を読んで気づきを与えるというのは、まさしく、その人が記憶の奥底に捨て去った感情や感覚を再び呼びさませて、(つまり、読んだ人の落し物を拾わせる作業を促せる)ようなものではいないかということだ。

誰に拾われるかはわからないけど、ネットという名の広大な海に瓶詰めして地図を流すような感覚。

いつか、誰かにそれを拾ってもらうことを期待するような感覚である。

そしてそれは、いつか誰かに拾われて、大きな力になるのかもしれない、なんてほんの少し期待したりしながら。

そういう意味で、某ロッキンのクイックレポートが写真とセトリだけになってしまい、文章を書くことを放棄したのは少し残念だなーなんて思ったりする。

実態はわかんないけど、あれを読んだから個人のブログでライブレポを書こうと思った人だってきっといるのだろうし、文章の力というものをもう少し信じ、それに抗う別の形を提示できなかったのかなーなんて、ふと思う。

なーんてことを記事を書いていたら、また電車に傘を忘れてしまった。

とほほ…。

でも、きっとあの傘も誰かの手に渡って、きっと何かの役に立っているのだと思う。

たぶん。

世の中、そういうものなのである。

たぶん。

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