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コメディー映画なんかを映画館でみるとき、外国人の比率が高いか低いかによって、その様相は大きく異なる。

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例えば、最近「銀魂」を観に行ったんだけど、この映画、意欲的に笑いを取ろうと、(色んな意味で)身体の張ったボケをたくさん入れてくるんだけど、その割に映画館内に大きな笑いが起こることはない。

もし、お笑いコンテストであの程度の笑いしか起こすことができなければ、おそらく「スベった」と判断されるだろうし、ネタを披露した芸人はひどく落ち込むだろうと想像される。

じゃあ、映画「銀魂」は全体的にスベっていたのか、ボケのほとんどがつまらなかったのか?と問われたら、個人の実感としてはそんなことはなかったように感じる。

SNSで感想をウォッチしてる限りでも評判はいいようだし、僕の周りの映画を観た人も軒並み「面白かった」と公言している。

ならば、上映中だってもっと笑いが起きても良かったのではないか?と思うわけだが、これは日本人の映画に対する鑑賞スタイルに問題があるように感じる。

おそらく、日本人のほとんどは、映画上映中は面白いと感じても不要に笑うべきではない、と考えているのだと思う。

考えてみればそうなるのも当然な話で、本編上映前にあれだけ「上映中はお静かに!」という注意を垂れ流すのだから、笑い声をあげないことがマナーなのだと考えるのも自然な話である。

少なくとも、大きな声で笑うべきではない、というのが大方の人の考えなのではないかと思われる。

一方、外国人の割合が増えてくると、館内の様相が変わる。

数ヶ月前に、僕は「レゴバットマン ザ・ムービー」を観に行ったのだが、公開初日に行ったこともあってか、わりと外国人のお客さんが多かった。

Lサイズのポップコーンとコカコーラを両手に持った「絵に描いたような白人集団」に囲まれながら、僕は映画を観ることになった。

外国人は上映中によく笑う。

たまたま僕の周りの白人集団の笑いの沸点が低かったからなのかもしれないが、ここはボケですよ、っていうシーンになると、毎回、何の躊躇いもなくHAHAHAHAHAと笑うのである。

終始、wwwwwwの弾幕が流れているような状態だった。

ちなみに、僕はその笑い声のおかげで、通常以上にその映画を楽しむことができたのだが、たぶんあれを銀魂でやれば、「どっかのバカの笑い声のせいでセリフが聞き取れなくて最悪だった」とか「笑い声聞くためにお金を払ってるんじゃないんだよ?マジであの笑い方ありえない」とか「上映前にも静かにしましょうって書いてるのにルール守れないとか同じ人間としてどうなん?」とか、散々な言われ方をされたのではないか、と思うわけだ。

日本人はとにかく全体の調和を重んじ、空気を読んで、極力波風は立てないように振る舞うべきと考えがちだ。

で、飛び出た異端分子は徹底的に叩く、というのもまた風潮なのである。

みんな少しずつ我慢することで、全体としてみたら快適な空間を作りましょうね、っていう考えが多くの日本人の肌に合うわけだ。

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だから、映画に関して言えば、静かに鑑賞すれば少なくとも「怒られること」はないし、不快に思う人間は出てこないから、余計な笑い声は立てないようにする人が、ほとんどになるわけである。

ライブだってこれと同じことで、歌うなとか飛ぶなとか、まあ色んな意見が飛び交いがちだが、基本的には全体の「和」を重んじるべきだ、みたいな解答になりがちだし、その「和」を乱したものは徹底的に叩くことになりがちである。

だから、飛ぶ空気ではないなかでのダイバーも、歌う空気でもないのに熱唱する奴も、モッシュされて勝手にキレてアーティストに罵詈雑言を浴びせる奴も、ネット上で木っ端微塵に叩かれるのである。

いや、もちろん上記は「やりすぎ」な事例だし、叩かれてしかるべきだとは思うのだ(実際、僕も不愉快に感じるだろうし)。

ただ、兆候として言えるのは、全体を重んじる方が日本人の肌に合っているということ、観客側の個性なんて不要であり、基本は無色透明で、空気を読んで必要なときだけ色を出せ、というのが日本人の大多数の意見なのだと思うのだ。

気がつけば、映画もライブも、学校や社会の延長戦上のノリで楽しみましょう、余計な荒波立たないような鑑賞スタイルに徹しましょう、となりがちだというわけである。

もちろん、これがちゃんとした哲学のもとにあれば、良いのだが、例えば、「みんなゴミ捨ててるから自分も捨てていいんだ」とか「みんな写真撮ってるから自分も撮っていいんだ」みたいな、悪い意味で全体の空気を読むこともアリアリなので、運営側からみれば、全体の空気のコントロールっていうのは、わりと大事なことになるんだろうなーとか思ったりして。

ところで、出る杭は打つという流れ、自分にとって気に入らないものは黙殺するという流れも色んな方向に向かいがちであり、あろうことか観客だけではなく、作り手にまで及んでしまっている。

某アイドルグループの「スカートを切られた歌」の歌詞に対し、過去にスカートの切り裂き被害に遭った人が異を唱えており、不謹慎だからやめてほしい、という署名活動を始めてるのだとか。

まあ、どんな歌でも聴くことで勇気をもらう人もいれば、不快に思う人がいるとは思うし、この歌が不快であると感想として述べるのは自由だと思うが、表現そのものを萎縮するような動きを形成していくのは、個人的には恐怖に感じてしまう。

が、これだってよく考えたら、軸足の置き方なのだなーという気もする。

どういうことか?

ライブ中に歌う人に対して「僕はあなたの歌を聴きにきたわけではない」と舌打ちするのも、自分にとって不快な歌を断ち切らすために署名活動して表現そのものを狭めるような動きをするのも、行動原理として同じなわけだ。

要は、自分にとって不快なものに対して、理屈を持って潰すように働きかける、という話。

逆に言えば、歌うことがなぜダメなのか?と意見を述べる人も、こういう表現がなぜダメなのか?という意見を述べる人も、その主張の是非はともかくとして、自分の側を守りたい、というのが本音としてあるのだと思う。

けれど、結局、日本人が最終的に優先するのは、全体の調和なわけだ。

こうなると、全体とは何なのか?という話になる。

極端なことを言えば、スカートを切られた人と表現の幅を狭めないようにしたい人と、どちらが「全体」なのかによって、某アイドルグループの一件の結論は変わるのだろうし、ライブ中の熱唱論争は、歌うことを嫌う人がほとんどだろうから、歌う奴が叩かれて終わるのである。

つまり、全体が大きくなればなるほど、自分の望んでいない結論に向かう可能性も大きくなるわけだ。(ダイブ論争だって討論する場所で変わる。apbankフェスで討論したら凄い論争になってしまうだろうけど、京都大作戦なら3秒で結論が出てダイブ肯定の空気になることだろう)

母体によって、全体によって何でも結論は変わるという話。

そして、それはマイノリティーは黙殺されてしまうという話にも繋がる。

民主主義なんて言いながら、マイノリティーが割りをくうのはどこの世界でも同じなのだ。

せめて僕たちができることは、僕たちの「側」にある大切な価値観をマイノリティーだからという理由で、敵対するマジョリティーに奪われないように立ち回ることだなーと思う。

コメディー映画を見る外国人のように、感じたままに動くことに躊躇いを覚えてしまうならば、せめてどのように立ち回っていくのかが重要なんだよなーと思う次第である。

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