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漫画原作が映画化したときによくある批判として「原作と全然違う」というものがある。

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もちろん、コメディーがウリの原作なのに、強引にシリアスな路線に変えられていたりとか、どっかのドラゴンボールの実写化のように「タイトル以外はまったく全て違う設定」で、どれだけひいき目にみても「ただの別の作品」とかなら、その批判もあり得るのかもしれない。

が、少しでも原作と違う結末を迎えたり、自分の思い描いていたような描かれ方がされていないと、「原曲は違うからダメ」と、すぐに文句を垂れてしまうのは、なんだかな〜と思うわけだ。

漫画と比べて面白いかどうかの比較ならともかく、「原作と違うからダメ」ははっきりいって思考停止に近い考え方だと思う。

そもそも小説なら小説の、漫画なら漫画の、映画なら映画のフォーマットがあるわけで、その媒体に適してカスタマイズされるべきで、むしろ原作と離れてくらいの方がいいと思うのだ。

尺だって違うんだから当たり前のことである。

とはいえ、映画の漫画原作に駄作が多いのも事実であるを

脚本をつくる手間を省き、予算を集めるための方便として「漫画原作」を採用しただけである作品なんてゴマンとあるわけだ。

ただそれを差し引いても、漫画原作の映画を批判するときに、杓子定規に「原作と違うから」を押されても、俺としては「いや、それは別にどっちでもいいやん」となってしまうわけであり、純粋にその作品が面白いかどうかなわけだ。

まあ、原作に愛のない作品は大概面白くなかったりはするんだけどね。

とはいえ、あまりにも原作を崇拝するような物言いには眉をひそめたくなるわけだ。

で、これってトリュビュート作品や、カバー作品にも同じことがいえると思うのだ。

トリュビュート作品は往々にして、原作ファンからは「カバーの仕方がなっていない」と文句を言われる。

これのどこが「トリュビュートやねん」、尊敬の「そ」の字もないわあ、と貶すこともあったりする。

最近のカバー曲で物議をかもしたといえば、スピッツの「春の歌」をカバーした藤原さくらである。

この歌も、おそらくスピッツの「春の歌」が好きな人からはあまり好意的に受け止められていないと思うのだ。(違ったらごめん)

まあ、カバー曲を聴いた人の反応としてありがちなのが、「この曲の良さは○○なのに、△△にすることで○○の部分が死んでる」というもの。

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まあ、わかるっちゃわかる。

春の歌に関しても同じような批判があったし、僕もスピッツの原曲が好きだから、その批判はよくわかったものだった。

おまけにわ個人的に藤原さくらはアミューズのゴリ押し感が強くてあんまり好きじゃないことも相まって、なおのことカバーした曲に対する点数は減点しがちだったわけだ。

が、カバー曲に対する点数の付け方を原曲と比べるのみに留める聞き方って、果たして音楽的に豊かな聴き方なのかといえば怪しいところである。

藤原さくらの「春の歌」はカバー曲としては意欲的な作品である。

リズム、テンポ、アレンジ、ボーカルの抑揚のつけ方含め、スピッツの呪縛から可能な限り抜け出し、オリジナル性を獲得できるというところに焦点を当てたカバーだったように思う。

つまり、「スピッツ」の春の歌ではなく「藤原さくら」の春の歌にしてしまうくらいの気概が見えたわけだ。

それだけ音楽的に色んな仕掛けを施した、面白い作品だったというわけだ。

その仕掛けを発見するうえで原曲と比較するならともかく、「原曲と違う」ことそのものが批判材料になってしまうのは違うよな、と思うわけだ。

「比較」することで批判してしまうような聴き方は、あまりに豊ではないよな、という話。

それは漫画原作の映画化でもそうだし、カバー曲に対する振る舞いでもそうだということ。

こういうことの積み重ねが物事に対する柔軟な思考を奪い、○○は○○であるべきみたいな、脳内の老害化を進行させてしまうのだ。

そういえば、Twitterでライブマナーをイラストにした人がえらく賛否両論になっていたが、あれだってこういう考え方もあるのね!参考になった!みたいな視座でみていれば、「面白い」で済む話なのに、「俺のライブ感」とは違うと、自分の正しさと「比較」することでしか物を語らなくなり、自分とソリが合わないものに関しては全てバッテンをつけてしまう考え方は、やはり少し貧しいものの見方だと言いたくなってしまう。

何でも「比較」をすることは良いが、「比較」に溺れると、いわゆる「老害」になってしまう気がする。

どんな物事でも、どういう「視座」を持って接するのかがまずは大事だよね、というそんな話。

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