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スピッツに「猫になりたい」という歌がある。

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この歌における「猫になりたい」という欲望の本質は、ふたつに分けられると思う。

ひとつは「猫のように気まぐれで自分勝手に甘えたい」という欲望である。

もうひとつは「飼い猫のように、好きな人に寄り添りたい」という欲望である。

つまり「猫的要素」を人間的にカスタマイズしたうえで、それが欲しいという話であり、厳密にいえば、それは「猫になりたい」ではなくて「猫のような立場になりたい」か「猫のようになりたい」という言い方が正確であるように思う。

別にスピッツの話がしたいわけでも、ましてやスピッツの難癖を付けたいわけでもない。

ここでふと思ったのは、ではもし仮に本当に「猫になる」をしてしまったら人はどうなるのか?ということであり、これをもう少し深く掘ってみたらどういう考えに行き着くのだろうか?と思った次第である。

この考えを始めるうえで、ポイントとなるのは、人類と猫の違いとは何か?を明確にすることだと思う。

猫の部分には「動物」を代入してもいいかもしれない。

さて、人間と動物の違いであるが、普通に考えたら色んな違いを見つけることができるとは思う。

が、多々ある違いのなかでも、根本的に人間と動物で違うものがひとつある。

それは「自己」というものに対する認識である。

どういうことか?

動物は基本的に「自分」というものを発見できていないわけだ。

その証拠に、動物の前に鏡を出して自分を映し出しても、それを自分として認識することができない。

もっといえば、鏡に写さなくても、猫なんかは自分の尻尾を自分で追いかけてその場をくるくると回るようなこともする。

これは自分の身体を自分と認識できていないことの表れである。

一方、人間は自分というものを認識している(当たり前な話ではある)

自分という存在をよりしっかり認識するべく、自分という存在に名前をつけて固有性を担保したり、鏡をみて自分はこういう姿形をしているのだと認識したりするのである。

ちなみに、若いうちはこの「自己」というものが肥大化しすぎているせいで、苦しむことになる。

厨二病なんていうのは、その最たる例である。

あるいは、メンヘラツイッターが「あたしってなんでこんなダメなんだろう?」と自己憐憫に浸るのも、本質的には「肥大化する自己」とにらめっこしている表れである。

この「自分」という認識は平たく言えば、「心」があるから生まれるものである。

音楽を聴く=心を豊かにする=自分が豊かになる、という良い連鎖を生み出すのもこういうわけである。

動物はいわゆる「心」がないから「自分」という認識ができないのだ、とも言えるわけである。

このような構造は、以下のような等式で示すこともできる。

心=理性=自分

しかし、現代社会において、この「理性」のあり方が大きく変容してきているのである。

どういうことか?

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細かく分析しながらみていきたい。

1.社会による要請

例えば、就活で上手くいくためには、あるいは社会を上手く生き抜くには、他人と同調させることを最優先して、自分という存在を希薄化させなければならない。

会社で働くうえでも「理性的に物事」を考えるのではなく「会社という物差しに従った合理的選択」のみが必要とされる。

極端なことを言えば、会社の言うことに従うロボットにさえなってもらえれば、「理性」は不要なわけである。

つまり、自己は犠牲にし、己の変質させ、理性を喪失させることが「理想」である世の中になってきているわけである。

2.ライブという現場においても

幾つかの記事でも指摘したことであるが、一部の人間はライブにおけるマナーやモラルが低下している。

これが意味するのは「理性」の減退なわけだ。

ブヒオタクやおそまつクラスタも、マナーが悪いなんて言われがちであるが、共通するのは動物的にコンテンツを消費するという姿勢であり、動物的になってしまうと、人間的マナーを消失しがちなのである。

動物的になるということは、自分という存在を希薄化させることとも繋がる。つまり、

コンテンツに動物的になる=自分の希薄化=理性の喪失

となるわけだ。

3.SNSなどのネット社会でも

Twitterでやたらとフォロワーを買い散らかしてしまう某あるあるアカウントなんかも最近槍玉に挙げられているが、あれも構造としては同じことである。

要は、Twitterというツールを使うことで別の自己を確立することに成功したからああなったわけだ。

Twitterによる別人格生成=自分の希薄化=理性の喪失

になるわけだ。

ただの音楽好きだった人間も、Twitterで「リアルとは違う性格のアカウントを作る」ことによって、本来自分にあったはずの理性までも変容させてしまい「やらかしてしまう」のである。

一旦理性がなくなれば「TwitterのDMからLINEの交換をして連絡取るのは簡単だし、向こうは自分のことを元々知ってくれてるからデートに誘いやすくなるし、デートさえ誘えたらあとはお酒飲んで、向こうの理性も下げさせてノリと勢いでホテル行ったら、ワンチャン余裕」ってなってしまうわけである。

厄介なことに、一回の成功体験が余計に自己を変容させて、理性の低下を促してしまうのである(これはダイブ中毒者にも同じことが言えると思う)。

つまり、全ての元凶は己の理性に「軋み」を与えるような、別の自分を生み出してしまう構造なのだ、ということである。

「猫になりたい」という望み自体を叶えることは不可能だが、アイコンを猫にして「猫になったつもりの人」はたくさんいる。

往々にして、このように「別の何かになったつもりの人」ほど、マナーのカケラもないような振る舞いを行ったり、相手の気持ちを慮れないディスを詰め込んだ言葉で、敵意を剥き出しにしまくりがちである。

社会人になって不倫する人でも、基本的には会社では「マジメ」を貫き通し、会社以外の外部で不倫をしがちなわけだが、不倫がバレることのリスクヘッジもさることながら、違うコミュニティに身をおいて、自己を変容させることによる生じる理性の減少の所以、というふうに解釈することも可能なわけである。

もちろん、全てが全てイコールで繋がる話ではないし、別垢を作って違う自分を演じてるからといって、悪い人ばかりではない。

けれど「猫になりたい」という願望には危険が孕んでおり、簡単に自分以外の「何者」になりたいと考えるのは危険だし、そんな考えに支配されている奴の「理性」には疑ってかかった方がいいよ、という話である。

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