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ざーっとTwitterのタイムラインを見てる時、ふとあることを思った。

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なぜ、少し重めの音楽リスナーは、自身が予約したはずのCDをタワレコなんかのCD屋さんで受け取りにいくことを、「お迎え」という言葉で表現するのだろうか、と。

僕は予約したCDを取りに行くことは「受け取りにいく」と表現するタイプなので、ほんの少し「むっ!」と思ってしまったわけだ。

実際、割合として「お迎え派」がどれくらいなのか気になったので、Twitter上でアンケートを取らせて頂いた。

このような結果である。

別にこのデータ自体にどうこう言うつもりはないし、ここで言葉の是非を問うつもりはないんだけど、なぜCDを「受け取りにいく」ことを「お迎えにあがる」と表現する層が一定数いるのかに関しては個人的に関心がある。

関係ないけれど、日タグなんかで反応をくれた人に対してフォローバックすることも「お迎え」と表現する人がいる。

何事に関しても「お迎え」という単語を使う人は、フォロワーとCDを同じものという認識でみているのだろうか?

だとして、なぜ執拗に「お迎え」という言葉を使うのだろうか?

その辺も引っくるめながら、分析と考察を進めていきたい。

ちなみに僕が日タグをすると、信じられないほど反応が悪くて迎えようがなくて絶望することが多いし、フォロバ99%みたいなアカウントにもフォローを返してもらえないことがあって、ムニャムニャする気持ちになることが多い。

まあ、どうでもいい話であるが。

話を進めていこう。

そもそも、邦ロックリスナーは言葉を過剰にする傾向がある。

例えば、ライブに行くことを「参戦」と言う奴が一定数いる。

もちろん、命をかけて音を鳴らしている場所に行くのだから、戦いに行くくらいの覚悟と志を持っていてもいいとは思うし、それくらい俺は気合いを入れてライブに行ってるんだ、という意味を込めて「参戦」という言葉を使っているならば別にいいが、「参戦」という言葉を使う奴に限って、ライブ中はサークルでワチャワチャするだけだったり、ダイブやりたがりマンがただイキってるだけだったり、アーティストのMCを全然聞かなかったり、友達と会いにいくついでにライブに行っている、みたいな奴が多いイメージがある。

いや、もちろん、それはそれでいいんだけどね。楽しみ方は千差万別だし。

けれど、「参戦」って言葉を使うほどのことはしてなくね?とは思っちゃうわけだ。

また、自分はライブに行かないが、ライブに行く友達に会うために自分もそのライブハウスに足を運ぶことを「お見送り」と言う奴がいる。

これもライブ=戦という認識があるからこそ生まれた言葉なのかなーと勝手に思ってる。

けれど、安心してほしい。

友達が行くのは戦ではなく、ライブである。

しかも、流血騒動不可避の海外メタルバンドのような危険なライブにいくのではなく、「音楽でみんなひとつになりましょう」みたいな、友愛精神の強いライブのはずなのだ、友達が行くライブは。

ライブが戦になることなんて間違いなくないだろうし、ライブ終わりは血の一滴も流さず、多少汗だくになるくらいで済むはずである。

ただ会って、フォロワー同士でペチャクチャ喋るだけなんだから「見送る」なんて意識の高い言葉を使うのは盛りすぎだよなーと思わなくもないわけだ。

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また、最近は減ったが、音楽が無くても生きていけそうな生活を送っていながらも、自分の音楽の好きさの度合いを表現するために「音楽は酸素である」と嘘の喧伝をする人もいたし、スマホが無くても死にはしないのにスマホへの依存度を表現するために「スマホは臓器である」と喧伝する人もいた。(まあ、これはキュウソのセイヤの表現力が秀一なだけだけど)

何が言いたいかというと、邦ロック勢はついつい表現を「盛りがち」だという話である。

こういう性質があるからこそ、CDを受け取ることも「お迎えにあがる」なんて言葉で表現する人たちが出てきたのではないか?というのが僕の仮説である。

それを踏まえたうえで、もう一度問うてみたい。

なぜ、少し重めの音楽リスナーは、自身が予約したはずのCDをタワレコなんかのCD屋さんで受け取りにいくことを、「お迎え」と表現するのだろうか?

①CDを「ただのモノ」と捉えていない説

邦ロックリスナーは盛りがちだと先ほど述べた。

となると、「お迎え」という言葉も何かを盛ったから生まれた言葉の可能性が高い。

では、何をどう盛ったのだろうか?

ポイントとなるのは「お迎えにあがる」という言葉を使用する人間が、CDに対してどういう意識を持っているか、である。

日タグなんかで反応があった人に対してフォロー返しすることを「お迎え」と表現する人がいるという話を先ほどしたが、これはフォロワーにちゃんと人格を認めているからこそ出てくる言葉なのだと思う。

フォロワーを数字としてしか見ていない人であれば「迎えにいく」なんて考えで、フォロー返しなんてしないだろうから。

と考えると、CDを受け取ることを「お迎え」という人は、CDにも人格を見出しているのではなかろうか?

なんせ愛するバンドマンが魂を込めて生み出した作品であり、結晶である。

そういう意識があるからこそ、CDは音源を収録したただの「モノ」ではなく、魂の篭った人格ある産物として認識するのではないか。

そして、そういう認識だからこそ、CDを取りに行くことを「お迎えにあがる」と表現をしているのではないか。

KEYTALKをはじめ、バンドの多くが「ヤバイTシャツ屋さん」になりがちな昨今だけど、もっともバンドの魂が込められ、パッケージされるものは、今でももちろんCDである。

そこに宿る魂と、作品そのものに対する圧倒的なリスペクトを持っているからこそ、「お迎え」という言葉を使って、CDを受け取りにいく人が一定数いるのかもしれない。

そう言えば。

これは僕の話になってしまうが、その昔、僕はテレビ局で働いていたことがあった。

ロケなんかにいくと、演者や技術さんの昼ごはんを用意する必要があって、予約した弁当を受け取りにいくことがあるんだけど、その弁当を受け取りにいく際、微塵にも「お迎えにあがる」なんて気持ちは沸き起こらなかった。

なぜなら、その時の僕は弁当のことを弁当としてしか見ていなかったからであり、それをただのモノとしてしか見ていなかったからだと思うのだ。

受け取る対象に対する思いが強ければ、そのモノを受け取る際に出てくる言葉も自ずと強い言葉になるのではないか?という話。

そして、アーティストに対して最大のリスペクトを持って作品と向き合っているからこそ、「お迎えにあがる」という言葉を使用するようになったのではないか、というそういう説。

②単純にそいつの語彙力の問題

まあ、その可能性も否めない。

まとめ

タダでナンボでも音源が聴けるようになったこのご時世でありながら、それでもCDを購入する人たちというのは、音楽が好きという以上にアーティストに対してのリスペクト精神がすごくあるのだと思う。

そして、そういうリスペクト精神があるからこそ、その気持ちが言葉に反映され、その結果のひとつとして「お迎えにあがる」という言葉がを一定数が使用するようになったのではないか?

もしそうなのだとしたら、その気持ち、これからも大事にしていってほしいなと切に願うばかりである。

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