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sumikaの「ソーダ」の歌詞についてみていきたい。

作詞 片岡健太

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けむくじゃらが~無惨に気が抜けちゃって

まず、けむくじゃらって何だろう。

猫のことだろうか。

1匹とあるから、動物であることは間違いない。

喉をならしているとも表現されているし、寝ているともあるから、たぶん猫だろうか。

岩井俊二の映画はあんまり見ていないので、どんなものかは何とも言えないが、2人という言葉が出てくることから、猫と一緒にカップルがごろんと寝そべって、トキメキの薄れた、まったりした生活をしている場面が想起される。

夏の魔法みたいに~そこのけむくじゃら

君の残骸=けむくじゃら。

ということは、けむくじゃらとは猫ではなくて、モコモコしている君の着ていた服だったのか。

これは失敬。

トキメキというかドキドキというか、そんな感情は夏の魔法みたいに消えてしまったわけだが、この二人、今はどんな感じで生活しているのだろうか。

とりあえず、サビの歌詞をみてみよう。

ソーダ泣いちゃいそうだ~不健康な音で

まさかのダジャレが飛び出すのは、片岡健太が三十路になってしまったせいだろうか。(まあ、曲を作ったのはこの20代後半のときだけど)

君を思い出す、ということはもうここに君はいないということを意味するわけで、その後悔がサビで述べられている。

今の生活は炭酸の抜けたソーダのように刺激のない生活であり、あの日の思い出は炭酸の強いソーダのように刺激的だったというわけか。

炭酸が抜けていく過程に想いを馳せて涙が出そうになり、後悔する切なさ。

過ぎた時間はもう戻らないのだ。

悲しい話である。

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2人と1匹のストーリーには~その痛みすらガスのよう

喧嘩せずに淡々と日々を過ごしてきた結果が、二人の別離を生んでしまったわけで、後悔は募るのだが、そこで感じる痛みも炭酸のガスのようにすぐになくなってしまうというのが、なんとも悲しい。

ある意味、この感情の薄さみたいなものが、現代人っぽくてよりリアルである。

ふわって世界に馴染む~無色透明だった

ここでも先ほどと同じイメージが語られている。

ソーダ泣いちゃいそうだ~空虚な音で響いたよ

過ごした日々の濃度が薄かった分、思い出としてよみがえってくるものも薄いのだろう。

けれど、失ったことと、失うときに感じる微妙な痛みと悲しさははっきりと心の中にあるのである。

吐き出すものすらない~なれるわけもないけど

君との思いの濃度が炭酸に例えられているわけで、砂糖水のような関係とは、もはや完全に冷え切ってしまったようにも見えるわけだが、けれど君が嫌いなわけでもないところがまた微妙なところで。

本当は思いをぶつけあったり、たくさんの喜怒哀楽を共有するような刺激の強いソーダのような関係でありたかったけれど、でも、それはもうできないという歯がゆさがここで赤裸々に綴られる。

やや語りすぎの嫌いなあるが、だからこそ胸に迫ってくるものもあるのも確かで、これだけ説明されれば解釈することもなくなっちゃうわけである。

ソーダ僕らのストーリー~べルを鳴らした

君への想い=ゲップ

という例えはなかなか凄い。

どっちにしろ、まだ少しは炭酸が残っている間に君に会いに行くことを主人公は決心することになる。

どうやらこの二人、まだ終わった関係ではないことがここでわかる。

僕の訪問が劇的に何かを変えるわけではないのかもしれないが、ほんの少し何かが変わるのかもしれない微妙な余韻を残して、この歌は締めくくられる。

はっきりとした結末を用意しないところが、岩井修二の映画っぽくて、そもそもこの歌が岩井修二の映画みたいだなあ、と思う構造になっている。

で、このけむくじゃとは、結局猫だったのか、脱いだ服だったのか、実は結論付けれないでいたりする。

意外と判断するの難しいソーダ。

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