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SMAPが解散騒動で揺れている今、SMAPの楽曲の素晴らしさを説く記事があってもいいのでは。

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ということで、SMAPのシングルとしては初のミリオンセラーとなった名曲「夜空ノムコウの 」の歌詞をみていきたいと思う。

これはスガシカオが作詞した楽曲で、作詞の依頼をされていたのに締め切りをすっかり忘れており、移動中の飛行機で必死こいて書き上げたというエピソードがある。

今回はこの歌が「何を」語っているのかではなく、「何を語ろうとするのか」について語っていきたい。

要はなんでこの歌、こんなに良いんだろうってことですね。

最初のサビ~Aメロ

の歌の特徴は時系列である。

「あれからぼくたち」と最初のフレーズが出てくるわけだが、この僕たちは当然ながら過去の僕たちのことである。

信じてこれたかな、と過去形での問いただしになっていることからもそのことがよくわかる。

ただし「これたかな」という動詞の使い方が少しポイントで、これは「追いついた」ことを指し示す言葉でもあるわけである。

つまり、この歌は過去の自分が今の僕に対して歌っているという構図になっているわけだ。

そして、今のぼくは明日という次の未来を見据える構図となっているわけだ。

このサビのフレーズで、過去~現在~未来を繋げるような構成のなっているから妙に切なくなるわけだ。

Aメロの歌詞をみていくと、誰かという言葉が最初に登場するのだが、これは具体的な人物を指すというよりは、自分の外側の人間(組織とかグループとか)だったり世間だったり、そういう外側の世界を想像させる言葉なのだろう。

内と外をより意識させたいからこそ公園に「フェンス」を張り巡らしているわけだ。

公園の中=自分側=自分の心
公演の外=自分の外の世界=社会とか組織とか

って感じなわけだ。

そして、夜の風だけは外も中も関係なく吹き抜けているという描写である。

風が具体的に何を指し示すものかはわからないが、フェンスは完全に社会と自分を切り離さず、ゆるやかな繋がりを持たせているということを伝えたいのではなかろうか

Bメロ~一番のサビ

この歌はひたすら「ぼくら」という複数形の一人称を使っているのだが、このフレーズで初めて「ぼく」と「君」が登場する。

ぼくら=ぼく+君

になるわけだが、ぼくは誰で、君は誰なのだろうか。

男と女とか主人公とか友達とか色んな仮説を立てることはできるけれども、ここでは別の仮設をたててみたい。

僕=今の自分
君=過去の自分

つまり、Bメロだけは、過去の自分と今の自分を切り離しているわけだ。

そして、ぼくは平仮名表記なのに、君は漢字表記というのもやたらと匂ってしまう。

まあ、君はというのは過去にちゃんと生きていた実体としての「ぼく」のことだから感じにしており、今のぼくを「ぼく」と平仮名にするのは今のぼくではあるんだけど、実体としてのぼくというよりは心の中、つまりは内面世界のぼくのことであるから、平仮名として表記する方が適切であると判断したのだろう。

逆に言えば、きみを平仮名にすると、過去の心の中のもうひとりのぼくみたいな印象を与えてしまうと危惧したわけだ。

ぼく=内面世界(心)の中のぼく
君=心の中ではなく、身体がちゃんとある実体としての過去のぼく

意味だけでいえば、過去のぼくが感じたことを、いまのぼくもまだ引きずっているということになるだろうか。

そして、サビに入るわけだが、ここで、またしても内と外を意識させるフレーズが出てくる。

それは「マド」である。

わざわざカタカナで表現していることからもわかるとおり、これは「窓」を指しているのではなく、比喩ですよ、とアピールしている。

おまけにマドを開けたら、時間も場所も自由に行き来できる象徴としての「風」が再度登場。

そして、悲しみをため息に重ね合わせ、むかし過去の自分を苦しめて「悲しみ」が今のぼくから薄れてきていることを明示するフレーズが出てきている。

とりあえず、一番ではこの歌は複雑に時系列が入り乱れていることがわかれば、それでよしである。

引き続き、2番をみていこう。

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2番のAメロについて

2番の最初のフレーズは「昔の自分はこうでした」という自己紹介フレーズである。

これ以上の意味合いはない。

次のフレーズ。

ぼくと君に関係性さえしっかり押さえていれば、そんなに意味を汲み取ることは難しくないのではなかろうか。

「話した言葉」とは夢とかそういう類のことなのだろうが、過去の君が持っていた言葉は、ぼくになるまでの過程の間でどれだけ残ったのか(あるいは消えてしまったのか)を問うているわけだ。

そして、大人になってしまったが、それでも完全に夢を諦めたわけではなく、未だに心の中でから回りしているのである。

つまり、諦めきれていないわけである。

2番のサビ~最後のサビについて

スガシカオは「あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ」というフレーズがこの歌の言いたいことであり、残りはおまけみたいなもの、と公言しているわけで、このフレーズが過去の自分が今の自分に向けて、投げかけている言葉になるわけだ。

「あのころの未来」とは過去の自分が思い描いた将来の自分像ということだろう。

過去のぼくは色んな夢を思い描いていたわけだが、今のぼくはそんな夢をどれほど達成できただろうか、あるいはどれだけ近づくことができただろうかと考えさせるフレーズなわけである。

もちろん、この歌はそこに対する答えは提示せず、聴いている人それぞれにそれを問うているわけである。

この歌の「ぼく」が平仮名表記である理由はここにもあって、これは誰でも代入可能な一人称という意味合いもあるからこそ、ここは平仮名にしたわけである。

未来がどのようなものになるのかはまだ分からないが、全てが思うほどうまくはいかないけれども、未来の比喩を雲のない星空にしたということは「そこまで暗いものでもないよ」とスガシカオになりにエールを送っているわけでもあるのだ。

要はこの歌を聴いている今のぼく次第でどうにでもなるわけだ。

今は夜という暗い未来しか想像できないかもしれないけれども、マドという社会との壁を取り払い、ちゃんとしかるべき努力をして前を見て進めば星空をつかむチャンスは幾らでもあるわけだ。

夜が明けるとはあえて言わない。

明日があるという事実以外は、人によって未来は違うのだから。

けれど、この歌を聴いたぼくが「あれから」になるとき、あのころの未来に立つために、今、するべきことを見据えれば、きっと雲はないのだから星はつかめると教えてくれているわけだ。

あと、行動のみ。

そんな切なさの中に希望を織り交ぜた歌だからこそ、この歌は「名曲」として今なお輝き続けるのである。

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