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RADWIMPSの「棒人間」の歌詞について書いてみたい。

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作詞:野田洋次郎
作曲:野田洋次郎

解釈

この歌の主人公は人間ではないという。

しかし、自分の見た目は人間のようで、本当の自分が何者なのかは理解していないという。

こうなると、自分は人間ではないという前提が間違いなのではないか?ということになってくるが、この主人公が自分は人間ではないと結論づける理由は2つである。

①大切な人を幸せにしたり 面白くもないことで笑ってみたり、そのうち今どんな顔の自分か わからなくなる始末→自分の行動や表情は全て「モノマネ」でしかない(=人間のような感情が欠落している?)

その一方で、ほどよくテキトーに生きながら ほどよくまじめに働きながら、全然大丈夫なフリしながら たまに涙流しているのだけど(=どうやら感情はちゃんとあるらしい?)

②手に入れた幸せは忘れるわ 自分のことばかり棚にあげるわ、怒らせ、苛つかせ、悲しませ 僕は一体誰ですか?→(人間なら絶対に忘れないことを忘れてしまい、人を無自覚に傷つけてしまうから、自分は人間ではないのだという結論)

要は人間にあるはずの感情と、普通ならできるはずの想像力が欠落しているから、自分は人間ではないと結論づけているわけだ。

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ただし「誰かのために生きてみたいな 生まれた意味を遺してみたいなこの期に及んでまだ人間みたいなことをぬかしているのです」や「人間として初歩中の初歩を 何一つとしてできないままに」という歌詞があるように、この主人公はこれが人間的な振る舞いであるという自分の固定概念に支配的になりすぎているキライがある。

彼の「人間ではない理由」をひとつずつみていくと、むしろそれこそが人間的特徴であるように思えてくる。

太宰治の「人間失格」を引用せずとも、この主人公は人間じゃないと言いながら、何よりも人間らしい人間であることがわかるわけだ。

なのに、ただ人間的特徴をつらつらと述べるこの主人公に「僕は人間じゃない」と言わせるところが、野田洋次郎のヤラシイさである。

この歌、どうみても「僕は人間じゃない」と主人公に言わせておきながら、人間たちの共感を狙いにいった歌詞であることがわかる。

もちろん、全員の共感を狙っているのではなく、社会とか学校にうまく馴染めず、自分は人と少し違うのかもしれないと劣等感を感じてる人たちに向けての言葉なのだろう。

しかし、少なくとも人間に向けて贈られている言葉であることには違いない。

そして、ある一定数はこういう言い回しの方が共感を得られることがわかっているから、あえて「人間ではない」なんて言い回しをさせているのである。

全ては野田洋次郎の計算の上に成り立っているわけだ。

「自分は人間ではなく、別の何かだ」というのはただの願望であり、いっそうのこと人間じゃなければ自分が他のみんなとは違う理由に納得できたのに、というある種の願いの言葉だったりするわけだ。

人間じゃないという言葉は、事実ではなくただの願いなわけだ。

けれど、この主人公も、この歌に共感する人も紛れもなく人間である。

なにより、どんな人でも顔には出さないけれど、心の奥底では色んな思いが交錯して苦しんでいるのであり、ある種、みんな人間のような姿をしながら人間じゃない何者かであるというジレンマの中で、「人間」としてなんとか生きていたりするのである。

すごく人間的に見える人でも、それは同じなのである。

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