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RADWIMPSの新曲「スパークル」の歌詞について書いてみたい。

※映画「君の名は。」に関するネタバレも含んでいるので、未見の方は注意してお読みください。

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この曲は映画「君の名は。」の挿入歌に使用されている楽曲である。

一番「泣ける」ところでこの歌が挿入されるので、この歌に思い入れが強い人も多いのではないだろうか。

当然ながら、野田洋次郎は映画を意識しながらこの歌を書いたことであろうが、果たして歌詞にどんな意味を込めたのだろうか。

早速みてみよう。

作詞:野田洋次郎
作曲:野田洋次郎

まだこの世界は 僕を飼いならしてたいみたいだ
望み通りいいだろう 美しくもがくよ

冒頭に出てくる「世界」とは何を指しているのだろうか。

おそらく社会を含んだ世界のことを指しており、社会人あるいは学生として社会に縛られながら生きていくことを「飼いならされる」と表現しているのだろう。

ルール通り、社会の仕組み通りに生きることを「安定した生活」なんて表現をよくするわけだけど、この歌の主人公はそこから少しだけはみ出ようとする。

ただし、泥臭くはみ出すのではなく、美しくもがくよ、と表現するのが野田洋次郎らしい。

ダイブ系ロックバンドのようなはみ出し方ではなく、オルタナティブロックの後継者としての「はみ出し方」というところだろうか。

互いの砂時計 眺めながらキスをしようよ
「さよなら」から一番 遠い 場所で待ち合わせよう

「お互いの砂時計を眺めながら」とは一緒に年を重ねていこうね、みたいな話だと思うけど、砂時計の残りが少なくなり、どちらが先に死ぬのかわかってしまえば、ちょっと酷な話ではあるような。

「さよなら」から一番遠い場所ってことは、つまりもう「さよなら」ができない場所であり、それは天国とかの類の言わば死後の世界のことなのだと察する。

先にひとりが天国に行き、やがてもうひとりも天国に行くからこそ、そこで待ち合わせするわけである。

この歌が映画で流される場所を考えると、非常に意味深い歌詞であることが改めて理解できるのではなかろうか。

辞書にある言葉で 出来上がった世界を憎んだ
万華鏡の中で 八月のある朝

ここでも「世界」という言葉が使わているが、冒頭ででてきた世界とニアリーイコールといったところだろうか。

我々が生きている世界で他人の気持ちを伝えようとしたら必ず言葉が必要で、基本的に言葉をツールにして生活を成り立たせているのが我々の世界なわけである。

でも、本当の気持ちというのはなかなか言葉では表現できないような類で、もっと言えば、聞こえる言葉と腹の中で思っている言葉とは違いがあったりで、大人になればそういう裏表に色々と翻弄されるものである。

そんな言葉に苦しめられるような様々な感情や欲望が渦巻く世界を万華鏡とたとえるわけだ。

そういえば、あの映画は学校があったから八月ではなさそうだけど、どうなんだろうか。

君は僕の前で ハニかんでは澄ましてみせた
この世界の教科書のような笑顔で

ここで「ハニ」という言葉がカタカナなのが妙に気になる。

顔では笑っているけれど、心の中では実は笑っていないような、微妙な感じを表現しているのかもしれない。

教科書のような笑顔というのも、一見この笑顔の綺麗さを伝えているような言葉であるけれど、マニュアル通りの笑顔であり感情がこもっていないという意味に捉えることもできるわけで。

僕と君はこれほどに愛しているのに、別れの時間は刻一刻と迫っている切なさみたいなものが浮き彫りにされていく感じだ。

ついに時はきた 昨日までは序章の序章で
飛ばし読みでいいから ここからが僕だよ
経験と知識と カビの生えかかった勇気を持って
いまだかつてないスピードで 君のもとへダイブを

ここらへんのフレーズも映画とあわせて読んでみると、なかなかにドキリとするわけであるが、君は天国のような場所に移動しつつあり、僕はカビの生えかかった勇気をもって、そんな君のもとへダイブするのだという。

君は僕に極力悲しんでほしくないから感情の伴わない笑顔をつくっているのに、僕はその壁をこめて君のもとに行こうとするわけである。

飛ばし読みでいいから、というフレーズは過去の僕があっての今の僕なんだけど、でもそれでもここからの僕は今までの僕とは違う「本気の僕」なんだよ、というニュアンスだろうか。

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続きをみていこう。

まどろみの中で 生温いコーラに
ここでないどこかを 夢見たよ
教室の窓の外に
電車に揺られ 運ばれる朝に

唐突にでてくるコーラというフレーズ。

いきなりファンタジーから現実に戻されたような感覚。

実際、まどろみから覚めて、夢を見ていたことをこのフレーズで主人公は告白するわけである。

ここから現実フレーズが幾つか出てくる。

教室の窓、電車(通学をにおわせるフレーズ)などなど。

僕はコーラが好きなその辺の高校生であることを想像させるわけだ。

君がいた世界は夢の中の話であり、君がいたことさえも夢の中のことであったかのように現実に戻っていくわけだ。

愛し方さえも 君の匂いがした
歩き方さえも その笑い声がした

キザな言葉が頻出しているが、要は君との出会いは夢の中のことのようであったけれど、現実で生きていても節々の場面で君のことを思い出してしまうと言っているわけである。

いつか消えてなくなる君のすべてを
この眼に焼き付けておくことは
もう権利なんかじゃない 義務だと思うんだ

義務だと思うんだ、と言い切ってしまっても「臭くない」のが野田洋次郎である。

現実の節々で君を思い出し、やっぱり君がいたことが確信に変わるような流れである。

運命だとか未来とかって 言葉がどれだけ手を
伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする
時計の針も二人を 横目に見ながら進む
そんな世界を二人で 一生 いや、何章でも

生き抜いていこう

一生を一章に見立て、それをさらに、何章も、という言葉に繋げちゃう野田洋次郎のダジャレセンス感が、何とも愛おしい。

この辺の「繰り返し」のモチーフは前前前世と通底しているテーマであり、野田洋次郎はもしかするとあの映画にそういう「繰り返し」の要素を見出したのかもしれない。

このあたりのフレーズは映画を一度見ていると、ニヤリとしてしまうフレーズなのではなかろうか。

この歌において、僕は高校生であることが想像されるが、君が何者で、君はどこにいってしまったのかははっきりと描かれてはいない。

おそらく映画に想いを重ねてこの歌詞を受け止めてもいいし、自分にとっての大切なパートナーに想いを馳せてこの歌を聴いてもいいからこそ、あえてそこは「伏せた」のだろう。

そして、この歌は「変化」を歌った歌である。

それは野田洋次郎の歌詞としても見て取れる。

昔の野田洋次郎の歌詞における「僕」は自身のことを全否定して、君を神様のように崇める、というのが常套なパターンであったけれども、この歌では僕が変わり、僕が勇気を持つことで君と一緒にいれるようにもがくことをしている点で確かな成長を感じる。

ちなみにスパークルを英語にすると、sparkle。

意味は火の粉、閃光、きらめき、とかそんな意味である。

これは、君のことを指しているのかもしれないし、それとも君と過ごした時間のことを指しているのかもしれないし。

あるいは僕のことを指しているのかもしれない。

ここに自分なりの筋道をつけられたとき、この歌詞は別の意味を帯びてくるのだろう。

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