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BUMP OF CHICKENの「記念撮影」の歌詞について書いてみたい。

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歌詞

作詞:藤原基央

目的や理由のざわめきからはみ出した
名付けようのない時間の場所に
紙飛行機みたいに ふらふら飛び込んで
空の色が変わるのを見ていた

遠くに聞こえた 遠吠えとブレーキ
一本のコーラを挟んで座った
好きなだけ喋って 好きなだけ黙って
曖昧なメロディー 一緒になぞった

やりたい事がないわけじゃないはずだったと思うけど
思い出そうとしたら 笑顔とため息の事ばかり

ねぇ きっと
迷子のままでも大丈夫
僕らはどこへでもいけると思う
君は知っていた 僕も気付いていた
終わる魔法の中にいた事

昨日と似たような繰り返しの普通に
少しずつこっそり時間削られた
瞬きの向こうに いろいろいくつも
見落としたり 見落としたふりしたり

あれほど近くて だけど触れなかった
冗談と沈黙の奥の何か
ポケットには鍵と 丸めたレシートと
面倒な本音を つっこんで隠していた

固まって待ったシャッター レンズの前で並んで
とても楽しくて ずるくて あまりに眩しかった

そして今
想像じゃない未来に立って
相変わらず同じ怪我をしたよ
掌の上の 動かない景色の中から
僕らが僕を見ている

目的や理由のざわめきに囲まれて
覚えて慣れて ベストを尽くして
聞こえた気がした 遠吠えとブレーキ
曖昧なメロディー 一人でなぞった

言葉に直せない全てを
紙飛行機みたいに
あの時二人で見つめた
レンズの向こうの世界へ 投げたんだ

想像じゃない未来に立って
僕だけの昨日が積み重なっても
その昨日の下の 変わらない景色の中から
ここまで繋がっている

迷子のままでも大丈夫
僕らはどこへでもいけると思う
君は笑っていた 僕だってそうだった
終わる魔法の外に向けて

今僕がいる未来に向けて

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歌詞の考察〜僕と君の関係性について〜

さて、この歌における僕と君の関係性、あなたはどう捉えるだろうか?

「遠吠え」「ブレーキ」「一本のコーラ」「レシート」などわりと具体的なフレーズが出てくる。

その言葉のイメージから、部活帰りの光景を連想する人が多いのではないだろうか?

「終わる魔法」という言葉も、学生生活とか青春とか、そんな言葉に置き換えられそうなニュアンスに感じる。

つまり、君とは学生時代の親友、という解釈ができるわけだ。

実際、「記念撮影」というタイトルからも分かる通り、過去の輝かしい思い出を、今という地点から振り返り、その過去は未来に繋がっている、という「時間の流れ」みたいなものがこの歌のテーマなわけで、そこから考えても、君=青春時代の親友、という捉え方はわりとすっと入るのではないかと思う。

君=学生時代の親友

悪くはない仮説だと思う。

が、個人的には納得がいかない部分もある。

例えば「あれほど近くて だけど触れなかった 冗談と沈黙の奥の何か」というフレーズがあるが、これは、この親友とくだらないことを言って笑いあったりするのに、本当に突っ込んだ話はしなかったり、夢とかマジメな話をすることは避けてきた、みたいなニュアンスだと思うのだ。

つまり、君とは仲が良かったけど、腹をわって何でも話せる仲ではなかったということになる。

そんな友達と別の道に進んだことを「迷子」と形容したり、その一方で「僕らはどこへでも行ける」と言って見せたり、なんか君に対する熱の入れ方に違和感を覚えるのだ。

一緒に夢を語り合わなかった奴のことを「お前はどこまでも行けるよ」なんて言ったりするだろうか。

今はもう君とは連絡が取れないことがこの歌の節々から伝わるわけだが、「どこまでも行けるよ〜」なんて嘯くくらいなら、FACEBOOKでどんな様子か見てやればいいんじゃね?みたいなことを感じてしまう。

それくらいの肩入れをする友達と、完全なる音信不通になるという感覚は違和感しか覚えないわけだ。

大体君が本当に大切なのだとしたら、例えば「君に会いたい」とか、「未来でもう一度君に会えるよ」みたいな感じの歌詞にすることだってできたはずなのに、それをしていないわけだ。

この主人公はもう君と会うつもりもないし、会える可能性に対する検討すらしていないように見える。

君はどこへでも行けるよ、としか言ってるのに、このサバサバ感、おかしいと感じてしまうわけだ。

「迷子」という言葉だって、本質としては君と
はぐれたことを指していると思うのだ。

なのに、会える可能性を検討しないのは、やっぱりおかしい。

ただの親友なら、なおのこと。

と考えると、「君」という人は、もっと違う何かなのではないかと考えてしまうわけだ。

これについて、もう少し深く考えてみたい。

歌詞の考察②〜過去と今と未来の時間軸について〜

この歌は、過去パート、現在パート、未来パートに分けることができる。

まず、最初の「目的や〜見ていた」までが現在パートである。

そこから、2番のサビである「そして今」までが過去パートとなる。

そして、「そして今」という言葉が出てきたから現在パートにいくのかと思いきや、そのまま一気に未来パートに移行する。

ただし、ただの「未来」ではなく、「想像じゃない未来」というのがポイントである。

普通、未来に対する形容詞って「あの時思い描いていたものかどうか」をポイントにすることが多い。

だから、通常は、想像していた未来に近いのか近くないのかをポイントにするような形容詞の付け方をするわけだ。

だが、ここでは「想像じゃない」未来であることしか強調されない。

つまり、未来は絶対にくるいう、その「絶対性」だけを強調するのだ。

未来という現実をチラつかせながらも「どこまでもいける」と言い切ってしまう辺りに、妙な違和感を覚える。

微妙な時制の歪みを感じるわけだ。

未来に無限の可能性があることを言いたいのか、未来はもう「想像じゃないもの」であることを言いたいのか、どっちやねん、というわけである。

ところで、時間を止める道具って、実は二つあることをご存知だろうか?

一つはこの歌にも出てくる写真である。

写真が一度シャッターを切ってその映像を焼き付けたら、基本的にそのまま時間を止めたままの自分を映す。

そして、もう一つ時間を止めることができる道具が「文章」である。

このブログもそうだが、そこに文字を書き綴ると、それは時間に晒されることなく、そこのメッセージは残りつづける。

日記はそういう性質を期待して付けるものである。

話はそれたが、この歌は写真を撮るモチーフをちょいちょい出してくるが、このシャッターをきって写真を撮った人って誰だろうか。

まさか知らないおじさん、というわけではないだろう。

ここで注意深く歌詞をみていくと、シャッターを切るとか、写真を撮るというモチーフは比喩であることがわかる。

シャッターというのは「瞬き」の比喩わけだ。

そして、写真を撮るという作業をしているのは自分自身であり、瞳を通じて記憶に焼け付けることを「写真を撮った」という言い方にしているわけである。

「固まって待ったシャッター レンズの前で並んで
とても楽しくて ずるくて あまりに眩しかった」

このずるくて眩しいと感じてるのはまさしく自分自身なわけであり、この自分自身がまさしく「レンズ」なわけだ。

瞬きができないくらいに、自分の記憶の過去の映像に食らいついているからこそ、シャッターという名の瞬きが固まってしまうのである。

だからこそ、「レンズの向こう世界に投げる」=今の(未来の)僕という言葉に繋がるわけだ。

この歌に、本物のカメラなんて一度も出てこないのだ。

「記念撮影」とは、言い換えたら、自分の記憶のこと。

ここまで言えば、わかるだろうか?

この歌の視点(シャッターという瞬きを持つ視点)は「未来の僕」なのだ。

そして、君は「過去の僕」であり、僕は「今の僕」なのだ。

この歌には、三人の僕が出てくるのだ。

だから、今という時制が出てくるタイミングで「想像じゃない未来」という言葉が出てきて、時制に歪みが生まれる。

でも、この歌の視点はあくまでも未来の僕だから、今=未来になるわけで、未来の僕だからこそ、その未来は「想像じゃないもの」になるわけだ。

末尾が「今僕がいる未来に向けて」という言葉で締めくくられるのも、そういうことである。

なぜ僕が君にはもう会えないのか、そして、僕のいる時制に歪みが生じる理由も、わかったのでないだろうか。

この歌には、三つの時制が巧みに出てくるわけだ。

全て自分という一つの歴史でその時制を繋げることができるからこそ、「写真」というアイテムで時間をワープすることができるのである。

そして、未来にいくのは過去の自分も今の自分も含めての話だからこそ、「どこまでも行ける」の主語は「僕ら」になるのである。

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