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BUMP OF CHICKEN「カルマ」について書いてみたい。

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まず、タイトルである「カルマ」はどういう意味なのか整理しよう。

日本語として当てはめると、「業」という意味になる。

では、「業」ってどういう意味なのか?

一言で言えば、行為とか行いという意味になる。

「行為」っていっても、どんな行為でも指すのではなく、あえて言うならば「結果を伴う行為」に限定される。

この結果というのは、良いことも悪いことも含む。

元々は宗教的な言葉であるため、ひとつひとつ業を積めばその信仰が叶うんだよ、とか、その業を怠れば災いが起こる、みたいなニュアンスで使っていたのだが、現代社会において「カルマ」という言葉はもう少し凡庸性の高いものとなった。

この歌でも、色んな「業」=行為について歌われていることが歌詞をみればわかると思う。

それを踏まえて歌詞をみていきたい。

作詞:藤原基央
作曲:藤原基央

ガラス玉ひとつ 落とされた 追いかけてもうひとつ落っこちた
ひとつ分の陽だまりに ひとつだけ残ってる

ガラス玉とは何のことを指しているのだろうか。

とりあえず、ふたつあるものであり、ふたつとも落としてしまい、結果として陽だまりの中に残っているのはひとつだけだということである。

これだけだと、えらく抽象的であり、何を意味しているのか正直よくわからん感じである。

ただ、なんとなくふたつのガラス玉を所持することはどうやらできなさそうな雰囲気が漂っている。

何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない的な。

選択を迫られている主人公を想像して、次の歌詞をみてみよう。

心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る
奪われない様に 守り続けてる

心臓が始まる=生まれたときから、ということになる。

歴史をたどれば、人類は自分の領土を大きくするために時に争い、時に協力して生きていたわけだ。

そういう領土的な意味合いとしても「場所」という言葉は機能しているのだろうが、それととも、この「場所」という言葉は己の誇りとか、想いとか、そういう言葉にも置き換えることができるように思う。

例えるなら、BUMPの「乗車権」で、空席に鞄置いてることに激怒したあの「席」と、ここで出てくる「場所」はニアリーイコールであるという話。

汚さずに保ってきた手でも 汚れて見えた
記憶を疑う前に 記憶に疑われてる

争えば、血で手が汚れる。

けれど、権力者に限って己の手は汚さず、下の人間に争いをさせて土地なり富なりを奪う。

だからこそ、汚れていない手でも汚れてみえるわけだ。

逆に汚れていないなんておかしいというわけである。

また、記憶に関してのフレーズは、実に藤くんらしい表現であるが、「記憶」という言葉を「過去の自分」に置き換えてみると、少しクリアに見えてくるかと思う。

記憶に疑われるとは、「おまえ昔はこういう野望を成し遂げるっていったのに、なぜおまえは今そんなところでくだらないことしてるんだよ」と、昔の自分に説教をされるようなイメージではないだろうか。

今の自分が、昔の自分について疑念を持つより、過去の自分が今の自分に疑われて軽蔑されてるぞ、という話である。

必ず僕らは出会うだろう 同じ鼓動の音を目印にして
ここに居るよ いつだって呼んでるから
くたびれた理由が 重なって揺れる時
生まれた意味を知る

僕らという人称はわ過去の自分と今の自分という解釈をすることで繋がってくるように思う。

「ここに居るよ いつだって呼んでる」のは、あの時の自分、過去の自分の言葉であろう。

両方とも同じ自分なのだから、鼓動の音が同じであることにも合点がいくと思う。

なんで過去の自分が夢見てことをこんな必死になって頑張ってるんだろうかとくたびれたとき、そしてその理由が揺れて「もう一度やるか」という気持ちになったとき、なぜ自分は生まれてきたのか、生きているのか、という意味を改めて理解するわけだ。

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2番の歌詞をみてみよう。

存在が続く限り 仕方無いから場所を取る
ひとつ分の陽だまりに ふたつはちょっと入れない

存在が続く=生き続ける、ということになる。

生きている限りは「場所」をとらなければならない。

そして、先ほどは解釈を保留にしたガラス玉はやはりひとつしか選べないようで、ちょっと困ったことになっている。

ガラス玉ひとつ 落とされた 落ちた時 何か弾き出した
奪い取った場所で 光を浴びた

さて、そのガラス玉に変化が生じた。

奪ったいった場所で光を浴びたのだ。

ガラス玉の言葉を定義しないといまいち意味が掴みにくいフレーズなので、これは一旦おいておこう。

数えた足跡など 気付けば数字でしか無い
知らなきゃいけない事は どうやら1と0の間

過去に行ったことが数字にばかり置き換えられるというのはよくある話だ。

必死こいてリリースしたアルバムは何十万枚売れたのだという数字の話にしかならないし、「これがやりたい」という理由で入った学校も、やがて偏差値でしかその学校を語ることはなくなる。

あの時描いた夢だって、年収○○にしかならなくて生活かま安定しないから辞めた方がいいみたいに、数字の話にすり替えられていく。

0と1の間というのは、それが数字に置き換えられる前の部分にこそ価値があるはずだということだ。

数字にしてしまったら数字しか見なくなるから。

数字になる前のことをもっとしっかり見ようという話。

初めて僕らは出会うだろう 同じ悲鳴の旗を目印にして
忘れないで いつだって呼んでるから
重ねた理由を二人で埋める時
約束が交わされる

先ほど述べだが「僕らは」とは過去の僕であり、今の僕である。

旗というのは、藤くんの歌詞によく出てくる言葉だが、「目印」「サイン」とかそんな言葉に置き換えられる。

「悲鳴」というが、これも合図というニュアンスに近い意味で使われていると思われる。

いつだって忘れないで、ということは油断すれば忘れる可能性もあるわけで、二人の距離の遠さが想像される。

けれど、いつか二人は重なり(同じ場所にたどり着いたとき)、約束は果たされるわけで、その約束が果たされるまでの行いこそがタイトルにもある「カルマ」ということになるわけだ。

鏡なんだ 僕ら互いに
それぞれのカルマを 映す為の
汚れた手と手で 触り合って
形が解る

人は皆、鏡であるという話。

誰かのフリをみると、自分のフリにも気づくという話。

場所を取ろうとすれば汚れてしまう手で、お互いを確かめあえば、相手がどんなものだったのか、何を考えていたのか、そして、今自分がするべき「カルマ」がわかるのだという話。

生きていくというのは、そういうことだろうという話。

ここに居るよ 確かに触れるよ
一人分の陽だまりに 僕らは居る

ひとつのガラス玉しか入れなかった陽だまりに僕ら二人はいる。

ということは、ガラス玉というのは、自分の分身(もう少し観念的な要素はあるかもしれないが)だったということがわかるだろう。

過去の自分が夢見たもの、それを自分は確かに思い出し、「カルマ」をなすことでそれを果たす覚悟を改めてもったわけだ。

忘れないで いつだって呼んでるから 同じガラス玉の内側の方から
そうさ 必ず僕らは出会うだろう 沈めた理由に十字架を建てる時
約束は果たされる
僕らはひとつになる

ガラス玉の内側から呼ぶという表現も、ガラス玉が何を示していたのか、強くイメージさせるフレーズとなっている。

沈めた理由=忘れてた夢に十字架をたてるというのは、夢を叶えるということを意味するのであり、まさしく過去の自分と今の自分が出会う瞬間、約束が果たされて僕らがひとつになる瞬間を指すわけである。

そのとき、ふたつのガラス玉はひとつになるのだろう。

ガラス玉こそが、「カルマ」を行うことで生まれる結果の象徴なのだから。

そしてその頃には、僕らはひとつになったとき、過去の僕は消えて今の僕が過去の僕になり、未来の僕が今の僕に変わるわけだ。

カルマに終わりはない。

生きている限り、場所を取り続けるのだから。

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