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米津玄師 の「Lemon」について書いてみたい。

記事全体で言えば、前半に個人の主観をばーって書いて、後ろに米津自身のコメントをまとめて、整理していきたいと思う。

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歌詞

作詞:米津玄師

夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる
忘れた物を取りに帰るように
古びた思い出の埃を払う

戻らない幸せがあることを
最後にあなたが教えてくれた
言えずに隠してた昏い過去も
あなたがいなきゃ永遠に昏いまま

きっともうこれ以上 傷つくことなど
ありはしないとわかっている

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに
胸に残り離れない 苦いレモンの匂い
雨が降り止むまでは帰れない
今でもあなたはわたしの光

暗闇であなたの背をなぞった
その輪郭を鮮明に覚えている
受け止めきれないものと出会うたび
溢れてやまないのは涙だけ

何をしていたの 何を見ていたの
わたしの知らない横顔で

どこかであなたが今 わたしと同じ様な
涙にくれ 淋しさの中にいるなら
わたしのことなどどうか 忘れてください
そんなことを心から願うほどに
今でもあなたはわたしの光

自分が思うより
恋をしていたあなたに
あれから思うように
息ができない

あんなに側にいたのに
まるで嘘みたい
とても忘れられない
それだけが確か

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに
胸に残り離れない 苦いレモンの匂い
雨が降り止むまでは帰れない
切り分けた果実の片方の様に
今でもあなたはわたしの光

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前置き

この歌は、ドラマ「アンナチュラル」に書き下ろされたもので、「アンナチャラル」は死んだ人の解剖をする話らしい。

で、「Lemon」も別れの歌なので、そんな切ない作品とリンクするところがたくさんあるわけだけれど、その辺も汲んだり汲まなかったりしながら、個人的な視座で歌詞の意味を考えてみたい。

わたしとあなたの関係性について

「自分が思うより恋をしていた」とあるように、わたしとあなたは恋人関係にあったように思われる。

わたしは今でもあなたのことを特別に思っているが、何か理由があって、わたしはあなたにもう二度と会うことができないし、話すことすらできない状態であることがわかる。

記憶の中でしか出会うことができないあなたへの歯痒くも強い感情をレモンに喩え、歌うわけである。

ところで、この歌、他の歌詞を考察されているサイトをみていると、わたしがあなたに会えなくなったのは「死別である、という筋書きをしている人が多いように見受けられた。

確かにドラマもそういうテイストだし、こんなに想いあっている二人がもう二度と会えないなんて「死別」しかないって判断もわからなくはない。

この場合、死んだのはあなたであり、あなたのことを想い続ける残された側のわたし、って路線で考える人が多いとは思うんだけど、その筋書きには個人的に「むむむむ」と感じるところがある。

「死んだのは誰だ?」

例えば、二番のサビ。

「どこかであなたが今 わたしと同じ様な涙にくれ 淋しさの中にいるなら わたしのことなどどうか 忘れてください」とあるが、これはあなたがどこかで生きていて、生活をしているから出てくるフレーズだと思うのだ。

死んでいる相手に「忘れてください」は変だと思う。

もちろん、天国でわたしのことを想っていることを想定して、って話なのかもしれないけれど、あなたが天国にいるなら、「もしかしたらわたしには見えないかもしれないけれど、実はあなたはわたしの近くで微笑んでくれているかもしれない」みたいなポジティブな考え方もできるけれど、このフレーズはそういう可能性を一切否定している。

いなくなったあなたを想像するなら、そういう考え方だってできるけれど、それは決してしない。

かといって、もうあなたの意識なんてこの世界にはないんだ、って決めつけてるなら「忘れてください」はやっぱり変で。

となれば、あなたはどこかで生きてる、って考える方が個人的には納得がいく。

けれど。

もしあなたが生きていて、わたしが死んでいるのだとしたら、わたし側からの「忘れてください」は成立すると思うのだ。

だって、死んだわたしのことを想ってあなたが泣いているならば早く忘れてください、って願いは、すごく切実だけど理解できるはずだ。

別れた恋人できる最後の優しさって、一刻も早く相手を前に向かせ、次の恋に向かわせるようにすることだと思うから。

わたしが死んでるなら幽霊のわたしはあなたに会いに行けばいいじゃん、って話もあるけれど、それは天国なり地獄なりに掟があって、そう容易いものではない、という考えでとりあえず納得して頂きたい。

で、もしわたしが死んでいるのだとしたら「昏い過去が昏いまま」なのも納得できるし、「きっとこれ以上傷つくことがないこと」にも納得できるし、「雨が降り止むまでは帰れない」というのも納得できる。(要は成仏できないことの言い換えと捉えられる)

だって、わたしには気持ちが変化する未来がないわけで。だから、こんなにも時間が止まったままのような言葉が並べられるのである。

過去曲との関連性

なんでこんな話をするのかといえば、それなりの理由がある。

米津の歌で、他に「檸檬」というフレーズが出てくる歌といえば「あたしはゆうれい」というものがある。

この歌でも、なんとも言えない切ない感情を「檸檬」と表現しているのだが、この歌はタイトルにもある通り「主人公がゆうれい」になっている歌である。

勘のいい人なら言いたいことがわかると思う。

感情を檸檬で比喩するということがイコールで繋がるのならば、主人公がゆうれいという等式も成り立つのではないか?という話。

もちろん、この考えが少し強引なのは承知であるが。。。

ところで、今回の歌は、他の米津の過去曲と似たようなモチーフを扱っているように感じる。

例えば「アイネクライネ」。

この歌では「今痛いくらい幸せな思い出がいつか来るお別れを育てて歩く」というフレーズが出てくるが、これは、恋には絶対終わりがくることを知っていて、今が幸せであればあるほど、終わりの悲しみが大きくなることを知っている人生観が投影されている。

また、「大切な人であっても本音を隠して生きることを選んでしまう主人公像」も描かれている。

どちらも「Lemon」の世界観と通底する価値観である。

そう言えば、米津は以前、なにかのインタビューで「自分は素直に自分の気持ちを、例えば『好き』という気持ちをちゃんと相手に伝えることができなかったから、疎遠になってしまった人が何人もいた」と語っていた。

本音を隠してしまう心情と、それに対する後悔を誰よりも知っているからこそ、歌詞に色濃くそれが投影されるのかもしれないし、「Lemon」の世界観がリアリティーを持って表現されるのは、そんな米津の人生観があるからこそなのかもしれない。

悲しみと苦しみについて

「Lemon」という歌が奇妙だなーと思うのは、わたしとあなたとの間に「幸せなエピソード」がちっとも出てこないところである。

確かにわたしがあなたのことをすごく想っているのはよくわかる。

そして、もう会えなくなってしまったことが受け入れられず、ひどく後悔していることもよくわかる。

けれど、サビをみてもわかるとおり、あなたとの想い出は「悲しみ」や「苦しみ」とともにあるし、昏い過去云々のくだりや、あなたとの想い出を「苦いレモン」で形容していることからもわかるとおり、「楽しい」とか「幸せ」からは、すごく距離のある回想をしていることがわかる。

単純に仲の良いカップルだったならば、楽しいだらけの日々だったからこそ今は寂しい、みたいなテイストになるはずなのに、「Lemon」にはそんな光の描き方がされることはない。

それでも、わたしにとってあなたは「光」だったのだから、きっと良い思い出もたくさんあったはずだとは思うけれど。

気になるのは、サビでいう「悲しみ」と「苦しみ」は何を指すのかということ。

それは、あなたが個人的に抱いていたものなのか、あなたとの生活で生まれたものなのか。

それによって、一連の歌詞の読み方は変わってくるわけだが、これ自体が歌詞で説明されることはないので、あとは個人の想像力に任せるしかない。

もし、これがあなたとの生活で生まれた「悲しみ」だとすれば、読み方によっては、あなたはひどい浮気癖があって、それでいつも悲しませてばかりいた、みたいな話に置き換えることだってできる。

「何をしていたの 何を見ていたの わたしの知らない横顔で」なんて、浮気を想像する女の図が浮かんできそうだし、「言えずに隠してた昏い過去」なんて、まさしく浮気をしていたことのようにも考えられるし。(流石にこの解釈はちょっとアレだけどさ)

死別じゃなくても、大切な人に会えなくなることはある

結局、死別したのかしていないかは、この歌ではわりとどうでも良いことなのだと思う。

大事なのは、大切な人に会えなくなったそのときの「気持ち」の部分である。

会えなくなった理由は死別だろうが、浮気だろうが関係ない。

会えなくなってしまった悲しみをどう考えるのかが大事なのだ。

SNSが発達したこの世なので、繋がろうと思えばたくさんの人に繋がれるし、その気になったら自分の気になった人が何をしているのかの探りも入れやすくなったわけだけれど、不思議なもので、一旦ただの他人だった人が「特別な人」に昇格して、その後に「違う人生」を歩むことになってしまうと、もう二度と会うことも連絡をとることもできず「古びた思い出の埃を払う」のように、ときどき夢の中で会うだけの存在になってしまったりする。

恋人になるなんて、まさしくその典型で。

「言えずに隠していた昏い過去」をさらけ出せる存在であっても、「あんなに側にいた」としても、恋人であることを止めてしまえば、そのあとに、お互いがどんな気持ちを心の中に留めていたとしても、本当は言いたいことが幾つかあったとしても、他人よりも遠い存在になってしまう。

それはある種、死別よりも遠い距離を生きることを意味する。

恋愛ってすごく二人の距離を近づけるものだけど、その距離が近くなればなるほど、その恋が終わってしまえば、近かった分、すごく遠い存在になってしまう。

ただの「他人」なら疎遠になったとしても疎遠になったことすら気づかないんだけど、恋人の場合、そういうわけにはいかないわけで。

一度切り分けた果実が、くっ付いてひとつになることは二度とないように、お互いが別々の道を歩んでしまったら、その二人が交わることはもうないのだ。

例えそれがどれだけ「大切な人」だと胸をはれる人なのだとしても。

その事実をちゃんと「悲しみ」として感じとれるならあなたは立派な人で。

だからこそ、悲しみをちゃんと悲しみに感じ取れるという事実に確かな希望を託すため、米津はこの歌の末尾は「そんなあなたが光であること」を何度も繰り返し断言しているのかもしれない。

別れた過去と悲しみがただの過ちではなく、未来へと繋がり、確かな希望に転ずることに期待しながら。

ちなみに米津本人の言葉として

『Cut』のインタビューで彼は「この曲を作っている最中にうちのじいちゃんが死んだんです。それで今まで自分の中で作り上げてきた『死』に対する価値観がゼロになった。結果、『あなたが死んで悲しいです』とずっと言ってるだけの曲になりました」と語っている。

歌詞の意味に対する回答という意味では、この言葉で全て完結していて、だからこそ「大切な人を失う悲しみ」がここまで悲痛に響くわけである。

ただ、米津がこう語りながらも、そんな曲ができたのは、前作のアルバムでたくさんの人とコラボしたからだとも語る。

菅田将暉、Daoko、池田エライザ…。

合理的なものからの逸脱。それが一番美しいんだろうなあっていう価値観は、菅田(将暉)くんやDAOKOちゃんや(池田)エライザから教えてもらったような気がします。

とのこと。

人との出会いと別れがあったから生まれた曲、ってまとめるとすごくエモく響くなーと思ったりする次第。

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