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桑田佳祐の新曲「メンチカツ・ブルース」。

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この歌は「君への手紙」に収録されている楽曲である。

桑田佳祐らしいお遊びソングのように見えるが、歌詞にどんなメッセージを込めているのだろうか。

みてみよう。

作詞:桑田佳祐
作曲:桑田佳祐

俺のメンチ食べたのは
どこのどいつだ!? ほい
俺のメンチ食べたのは
どこのどいつだ!? ほい
ばあちゃんがよく言うことは
“道でコロッケるでねえ”

メンチとは、タイトルにもあるメンチカツのことを指しているように思う。

そのため、メンチカツとよく似た食べ物であるコロッケという言葉がここに登場する。

コロッケるとはダジャレだと思うのだが、実はこのダジャレがぴんとこない。

こけるという言葉をコロッケるとダジャレているのだと思うのだが。

気になるのは、コロッケという言葉をダジャレとして使っているということである。

これはつまり、メンチという言葉もダジャレとして使用しているのではないか、ということである。

俺のメンチとは本当は何を指すのか。

どんなことを意味しているのか。

それを深く考えていくことが、この歌詞を解釈していくうえで大きなポイントになるように思われる。

歌詞の続きをみてみよう。

俺がパンツ脱いだのは
ゴムが切れたから
俺がパンツ脱いだのは
ゴムが切れたから
女房がよく言うことは
“タマにゃいいんじゃないのサ”

パンツとかゴムとかタマとか、大事な言葉だけカタカナ表記することで、卑猥な想像を喚起させる桑田の術。

このゴムという言葉が何を指しているのか色んな想像ができるわけだが、普通に歌詞を考えたらパンツのゴムのことである。

でも、本当にそれだけかといえば、それだけではないわけだ。

そもそも、パンツだって何かの比喩である可能性が高いわけで。

一体なんだろうか。

しかし、歌詞を見るだけでは、その答えは判然としない。

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歌詞の続きをみてみよう。

俺がさんま焼いたのは
一度たけしかねえ (コマネチ ドゥーワップ)
俺がさんま焼いたのは
一度たけしかねえ (コマネチ ドゥーワップ)
魚釣れたら添える
網はタモリじゃねえ

さんまとは魚のさんまではなく、明石家さんまを想像させる。

わざわざ、一度だけしかねえ、を一度たけしかねえ、と言っているのは「たけし」という言葉を使いたいからだろう。

この「たけし」とは、おそらくビートたけしの「たけし」のことであると思われる。

タモリという言葉を使うのもそういうことである。

このフレーズで大事なのは、ひとつの単語に色んな意味を込めていることを示唆しているということだ。

逆に言えば、この歌に出てくる単語は全て色んな意味を込めていることがわかるだろう。

なぜ大物タレントの名前を列挙したのかも気になるところである。

そして、メンチは一体何を指しているのだろうか。

歌詞の続きをみてみよう。

俺のメンチ食べたのは
どこのどいつだ!? ほい (キャ、キャベツしか残ってねぇよ)
俺のメンチ食べたのは
どこのどいつだ!? ほい (メンチだけに、俺にメンチて許しておくれ)
姉ちゃんがよく言うことは
“親にハムカツちゃ良くねえ”

免じてをメンチて、というダジャレを使う。

刃向かったらをハムカツちゃ、というダジャレも使う。

キャベツやハムカツという言葉を使ったり、くだらないダジャレを並べることで問題をすり替えようとするが、この歌で大事なのは、本当は「メンチ」とはどういう意味で使っているのかということになる。

わざわざ曲間に笑い声を挿入することで、この歌の「おふざけ感」を強く使用としていることが、これは桑田の策略であるような気がしてならないわけだ。

最後のフレーズをみてみよう。

俺がウ★コ踏んだのは
朝のハイキング・ロード (コマネチ ドゥーワップ)
俺がウ★コ踏んだのは
朝のハイキング・ロード (コマネチ ドゥーワップ)
“運がイイよ”なんて言うなよ
Bad luck in the morning
I’m feeling blue

ここにきて、いきなり下品な言葉が飛び交う。

ウ★コって。

そして、ちょっと前に出てきた「たけし」というワードと呼応させるかのように、「コマネチ」という言葉もここで登場する。

あと、ウンコと運のダジャレも登場している。

最後の英詞は、朝の悪運は気分をブルーにさせるという意味。

朝の悪運とは、ウ★コを踏んでしまったことを指しているのだろうか。

けれど、これも比喩である可能性が高い。

でも、一体何の比喩だというのか。

その解釈に補助線を引くためにも一度、この歌の主人公である俺のことについて考えてみよう。

この男の状況について整理してみよう。

この男は、パンツのゴムが切れて半裸になってしまい、食べようとしていたメンチは誰かに食べられてしまい、挙句に最後はウンコを踏んでしまう。

さんまを焼いたことは一度しかないらしいが、今はウンコを踏んだことで気持ちがブルーになっているとのこと。

ウンコを踏んだことが悲しみこそなってしまうが、怒りの感情がまったく芽生えないのはなぜだろう。

普通、ウンコを踏んだら「誰やねん。こんなところでうんこをしたのは」と怒るものではないだろうか。

なぜ怒らないのかを考えてみた。

怒ることを「メンチを切る」とよくいうが、この男はメンチを食べられてしまい、なくなったという。

もし、ここでいうメンチがメンチを切るの「メンチ」なのだとしたら、それが意味するのは、「この男は怒れなくなってししまった」ということではなかろうか。

だから、ブルーな悲しみに苛まれることはあっても、レッドな怒りの感情を宿すことはないのだ。

ちなみに、ウンコが比喩であるとすれば、それは汚いもの・醜いものの比喩であることは想像ができる。

また、コマネチの動きからウンコを踏んでしまったのだとすれば、そしてこの男は半裸であるということを考慮するならば、このウンコは自分のものである可能性も出てくる。

自分でウンコを漏らして地面に落とし、そのウンコを踏んだというわけだ。

となると、ウンコとは自分の醜い部分の象徴という仮説も立てられるわけだ。

よし。一度、ウンコのことは忘れよう。

一旦、違うことに着目してみる。

この歌では、ばあちゃん、女房、姉という女性3人がこの男に「助言」をしている。

全員が女であることは実に象徴的である。

この理由は色々考えられるが、男の見ている景色とはまったく違うものを女が見ていることは間違いなく、この主人公では、絶対に到達できない考えを提示していることが想像できるし、ゆえに助言をしていると考えられる。

ばあちゃんは「坂道をこけるな」という。

女房は「たまにはいいんじゃない」という。

姉は「親に刃向かうのは良くない」という。

面白いことに、血縁のある家族は主人公に対して「安定した道」を歩ませるような指南をしており、女房だけが「はみ出すことも、たまにはいいじゃん」と穏やかな肯定をしている。

気になるのはウンコを踏んづけて「運がいいよ」と言った主である。

女性がこれだけ出たのに、一番近しい存在であるはずの母が登場していないことから、これは母の発言ではないかと勝手に予測をたてる。

ウンコをお尻からはみ出すことは、人生からのはみ出しを案じた比喩であり、それを踏んづけるということは、その可能性を自らで閉じたという説。

はみ出した結果がウンコ程度しかなかったということかもしれないし、自分の醜さがはっきりと見えたということなのかもしれない。

いずれにせよ、何かを追いかけて路頭に迷うことをストップできたから「よかったじゃない」といったのかもしれず、何者かになりたかった男は結局何者にもなれなかったからブルーになったのではなかろうか。

人が夢みて努力するのは、は怒りの感情が為す割合も大きい。

しかし、この男は自分のことを考えてくれている家族によって、怒りの感情をとりあげ、夢みて行動する気力を奪ったのだ。

女房はたまにはいいじゃんといったが、家族は反対したのだ。

おそらく、この男がはみ出そうと決意したのは、テレビにいたさんまやたけしやタモリのタレントの存在が大きかったからではなかろうか。

夢は芸人だったのかもしれない。

歳を重ねても、たけしのコマネチが心を根付いている理由はそういうことかもしれない。

けれど、その夢はメンチとともに消え去った。

夢を叶えられないことを、つまり現実を受け入れなくてはならなくて男はブルーになっているのである。

なーんて、若干無茶苦茶な考察をしてみたが、あなたはこの歌の歌詞に思いますか?

以上、メンチカツ・ブルースの歌詞の意味と解説なのでした。

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