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小沢健二の19年ぶりのシングル「流動体について」の歌詞について書いてみたい。

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前書き

この歌は小沢健二が97年にリリースした「ある光」の先を歌った歌であると言われている。

また、他の小沢健二の楽曲の並行世界について歌われたものであるという捉え方もある。

ちなみに「流動体について」は19年ぶりのシングルとなるわけだが、その前にリリースされたシングルが「春にして君を想う」であり、さらにその前にリリースされたシングルが「ある光」なのである。

元々、彼の音楽は、様々な先達の音楽を引用した織物のような構造になっているわけで、小沢健二をリアルタイムで聴き、彼に熱中した人間ならば、過去の作品に想いを馳せるながら聴くことになるだろうし、それがもっともベターなあり方だ。

しかし、僕自身はリアルタイムで小沢健二を一切聴かなかったし、前のシングルが発売されたときはそもそと音楽というものすらマトモに聴いていなかった人間だった。

そういう思い入れがまったくない状態で、今作の歌詞をみても痺れるものはある(これがすごい)。

なので、そういう真っ新な気持ちで歌詞を受け止めつつ、彼にまつわるほんの少しのエピソードを足掛かりにしながら、今作の歌詞の意味について考えてみたい。

本文

作詞:小沢健二

羽田沖 街の灯が揺れる 
東京に着くことが告げられると
甘美な曲が流れ
僕たちはしばし窓の外を見る

なぜ降り立つ場所が羽田沖なのだろうか。

羽田沖にあるのは空港である。

そして「ある光」の歌詞にはJFK国際空港が出てくる。

つまり、「ある光」ではJFK国際空港にいた僕は、「流動体について」では羽田空港に戻っているということになるわけだ。

「東京に着くことが告げられる」という歌詞も、それまで海外にいた僕が久しぶりに日本に帰ってきたというニュアンスに聞こえてくる。

これはオザケンがついに表舞台に復帰し、シングルをリリースしたという事実とも繋がっているわけで、この歌詞は架空の物語としても、小沢健二の「今」としても、解釈することができるわけだ。

なにより、「ある光」では僕という一人称しか登場しなかったが、この歌では「僕たち」という二人称になって日本に帰ってきている。

海外で出会った誰かと一緒に日本に帰ってきたというのは、まさしく結婚をして子供を持った今の小沢健二と完全にシンクロするわけである。

もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?

並行する世界の僕は
どこらへんで暮らしているのかな
広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

最初に思い浮かぶ疑問が、「間違い」って何だろうかということである。

この「間違い」に対する答えが、「並行する世界の僕」に託されている。

要は違う道に僕が進んでいたら僕とその周りのものはどうなっていたのだろうか、という空想=並行世界というわけである。

もし違う道に進んでいたら、住んでいた場所も今とは違うものになっていたのかもしれないと想像してるわけだ。

地下鉄の地図をみるということは、そのときには海外に住むという選択肢を消され、日本のどこか、東京のどこかに住んでいたということだろうか。

いずれにせよ、ありえたかもしれない自分の未来を想像していることはわかるだろう。

神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらい

そんな並行する世界の僕も含め、神の手の中にあるとすれば、想像であっても、できることは良いことを決意するくらいなのである。

やましい気持ちでなにかやらかしたりなんてできないよね、という話である。

雨上がり 高速を降りる
港区の日曜の夜は静か
君の部屋の下通る
映画的 詩的に 感情が振り子振る

飛行機をおりて、空港を出て、車で走っていた高速を降りる場面。

ここで「君の部屋の下通る」とあるが、ここの「君」って誰だろうか。

となりにいるであろう奥さん(と言い切ってしまったが)であろうか。

その答えは、「ある光」の歌詞を参照すれば、見えてくる。

「あの光」では線路という言葉がたくさん出てきて、線路を降りたら誰かと出会うことを予感させるフレーズが並んでいる。

並行の世界に想いを馳せたとき、僕が見ていたのが地下鉄のマップだったのは、地下鉄でいける場所に住んでいる、「あの光」のときに出てきた「君」のことを想像していたからなわけである。

それは今の奥さんと別の人なのであろう。

それを裏付けるのが高速を降りた辺りが「君の住んでる下」という歌詞なわけだ。

もし、地下鉄近辺に住んでいる「君」といることを選んでいたら、海外にいることはなかったのだろうし、東京の地下鉄沿線沿いに住んでいたのだろうと思ったからこそ、地下鉄の地図を見たのである。

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の毎日
子供たちも違う子たちか?
ほの甘いカルピスの味が不思議を問いかける

そうなっていたら、自分の子供もこの子たちではなく、別の子が産まれていたのだろうなあという想像するわけである。

並行する世界では、もう会うことのない「君」と、「君」と間にできたであろう子供が出てくるわけだ。

そして、この想像、この未来こそが「間違い」なのだといっているわけである。

逆に言えば、「間違い」に気付いていなければ、僕は「君」と結ばれ、「君」との間に子を身ごもっていたのかもしれない(そうなると、今の子は当然いなくなるわけだ)。

ここで急に出てくる「カルピス」というワードは、ある意味で子供を象徴した言葉となっている。

同乗していた子供がカルピスを飲んでおり、「お父さんもこれ飲みなよ」と渡されて飲んだのかもしれない。

自分は子供がいなくなるような想像をしているのに、その子供から屈託のない信頼と笑顔とともにカルピスを差し出されるわけだ。

不思議だなーと思うのもよくわかるというものである。

両親を忌む子供はたくさんいるが、親が違う人と結ばれていたら、もうそこに「自分」はいないわけで、親の否定=自分の存在を否定することになる。

命のことをそこまで射程を広げて考えてみると、不思議というもののスケールもより大きく感じるわけである。

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歌詞の続きをみてみよう。

だけど意思は言葉を変え
言葉は都市を変えてゆく
躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼
彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く

ここから急に「都市」の話に変わってくるのがオザケンの凄さである。

ここで出てくる「君」は先ほどの君のことだろうけど、もう会うことのない君の部屋にも届くのは一体何のことなのだろうか。

ここでキーワードになるのが「流動体」であり、「蜃気楼」ということになる。

しかし、これについては、現状ではまだ何も言えないので、歌詞の続きをみてみよう。

それが夜の芝生の上に舞い降りる時に
誓いは消えかけてはないか?
深い愛を抱けているか
ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける

深い愛というのは今の奥さんとの愛だとすると、誓いは「一生あなたのことを愛します」って感じの、結婚式とかでよく述べるあの誓いの言葉ということになる。

カルピスがある種子供のことを指しているとするならば、「それ」とは君との想いということになるし、夜の芝生とは僕の心ということになるだろう。

いずれにせよ、「それが夜の芝生の上に舞い降りる」とは、僕と君が再び接近するような危ういニュアンスであることはわかる。

そして意思は言葉を変え
言葉は都市を変えてゆく
躍動する流動体 文学的 素敵に炸裂する蜃気楼

ここの歌詞の解釈は一旦保留にしておこう。

それが夜の芝生の上に舞い降りる時に
無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
人気のない路地に確かな約束が見えるよ

海=欲望、のようなニュアンスだと思われる。

先ほどまでは不倫しちゃうような危うさがあったが、もうそれほどの怖さはないとここで言いのける。

それは意思が言葉を変え、言葉が都市を変えていくからだと思われるが、これって今の奥さんと向き合うことを決めたという意思が、今の奥さんを大切にし君に対してはもう会えないという言葉を言わせるに至らせたということなのだろう。

それによって自分の住む場所も環境も変えたという意味で「都市」という言葉を使っているのではないかと思う。

神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう

無限の海は広く深く
でもそれほどの怖さはない
宇宙の中で良いことを決意する時に

全ては運命であり、結局は神の手の中で行われたことなのかもしれない。

だからこそ、神の下で生きる僕らは良いことを決意するくらいしか正直できないのである。

その一方で、一見すれば現実は無限の海のようにみえるけれど、でも意思が言葉を変えて、言葉が都市を変えていくように、少しずつ個が大きなものに影響を与えるということは可能性はありうる。

そして、最後に。

この歌はあまりにも小沢健二本人のことを歌っているようにみえるからこそ、流動体=小沢健二と考えていいと思う。

だからこそ、タイトルは「流動体について」なのだ。

そして、流動体=小沢健二とするならば、蜃気楼とは、「流動体について」という歌そのもののことなのではないかと思うわけだ。

もう会えことはなく、直接言葉を交わすことはない相手でも歌であれば、君の部屋まで言葉を届けることができるわけで。

大きなものを歌ったように見せて、小さいなことを歌い、でも、それが結果大きな影響力を与える。

そんな可能性がこの歌には秘められているのではないかと勝手に思っている。

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