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宇多田ヒカルのニューシングル「真夏の通り雨」が4月15日から配信された。

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歌詞の全貌が明かされたので、宇多田ヒカルがこの歌詞にどんな意味を込めたのかみていきたいと思う。

※当記事について著作権違反という申し出があったため、歌詞の引用部分に関して一旦全て削除にしますが、お手数ですが、歌詞に関して別サイトでご参照になりつつ、当記事をお読みください。お手数おかけいたしますが、よろしくお願いいたします。

さて、この歌は「花束を君に」とは対になるような歌であり、二人称に「あなた」を使っていることから、おそらく、この歌の主人公は女性であることが予想される。

ちなみに「花束を君に」は二人称に「君」を使っている。

つまり、両曲で主人公の性別が違うわけだ。

で、両曲とも主人公があなたと何らかの理由で別れることになったことについて歌う歌なのである。

ただし、「花束を君に」は涙を流しつつも花束を贈っていた点で、少しは別れに対して前向きに振舞っているように見えるが、この歌は主人公が明らかに別れを引きずっているようにみえる。

そういう意味で、この歌は「花束を君に」と対になっているように感じるわけだ。

さて、ざっとこの歌の歌詞をみると、失恋の歌ように見える。

「汗ばんだ身体を抱き寄せて、たくさんの初めて刻む」ような間柄なのだから、おそらく恋愛関係にあるのではないか、と思うわけだ。

そして「勝てぬ戦に息切らし、あなたに身を焦がした日々」とあるように、あなた側の方から、この歌の主人公に別れを迫り、もう会うことが叶わない関係になってしまったのではないか、と見て取れるわけだ。

要はあなたが別の人に恋してしまったので、主人公は別れを切り出されてしまい、結果、失恋したんじゃないか、というわけだ。

しかし、そのストーリーでみていけば、引っかかる点が幾つかあるわけだ。

まずは「今日私は一人じゃないし、それなりに幸せで、
これでいいんだと言い聞かせて」というフレーズ。

一人じゃないということは、この主人公に新たな恋人ができたという意味かもしれないが、それならば「今日」という言葉は余計な気がする。

誰かと行きずりの関係になったというのか。

また、サヨナラというフレーズ。

「花束を君に」は平仮名で表記されたこの言葉。

この歌ではカタカナで表記されている。

つまり、さよならの意味合いが両曲で違うというわけだ。

これは何を意味するのだろうか。

また、この歌は真夏の通り雨、というタイトルである。

雨というのはメタファーで、悲しい気持ちでいっぱいになっていることを指して「雨」と表現していると思われる。

しかし、その悲しみの象徴である「雨」は通り雨=一時的なもの、とタイトルで示しているわけだ。

「思い出たちがふいに私を乱暴に掴んで離さない。愛してます 尚も深く」とまで言い切った主人公の悲しみが通り雨で済むとは到底思えない。

なぜ、雨は「通り雨」なのか。

不思議である。

そして、一番不可解なフレーズがこれ。

木々が芽吹く 月日巡る
変わらない気持ちを伝えたい
自由になる自由がある
立ち尽くす 見送りびとの影

木々が芽吹く、月日巡る、のフレーズの意味はわかる。

彼と別れた歳月の長さを表現しているのだろう。

その次のフレーズはこうだ。

「変わらない気持ちを伝える」

このフレーズで予想するわけだ。

主人公は彼のことをこんなにも想っているのだから、その想いの強さをここで告白するのだ、と。

しかし、違うのである。

ここで出てくるフレーズが「自由になる自由がある」。

なんだこれ?どういう意味だろうと考えるわけだ。

その後に続くフレーズが「立ち尽くす、見送り人の影」というのも凄く象徴的である。

自由になる自由、とは文字通りの意味なのだとして、ここでいう「自由になる」とは何を指すのだろうか。

そして「自由になる」サマをみて、見送り人が立ち尽くしたのだとしたら、それはどういう事象なのだろうか。

ここで、考えられる想像はふたつ。

ひとつは、付き合うということ、恋人関係、というものから自由になり、おそらくは浮気でもして、新しいカップルの姿を立ち尽くして見送ったというもの。

もうひとつは、自由になる、というのは魂の話で、要は肉体的に死んでしまい、、死体となって埋葬される恋人の姿を見て、立ち尽くして見送ったというもの。

ひとつ目の想像では、自由になる、とは浮気を指し、
ふたつ目の想像では、自由になる、とは死ぬことを指す。

ここで「今日は一人じゃない」というフレーズが蘇るわけだ。

一人じゃないのは、夢の中ではあなたと会えるからなのではないか、と。

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「夢の途中で目を覚まし、瞼閉じても戻れない、さっきまであなたがいた未来、たずねて 明日へ」というフレーズからもわかるとおり、主人公はあなたを渇望しているのだ。

他の誰かと一緒になって、恋人のことを諦めるような人ではない。

一人じゃなく、誰か相手がいるのだとしたら、それは「あなた」以外、あり得ない。

もし、彼が死んで魂になってるのだとしたら、夢の中でなら会える理由もわかるし、「自由になる自由」の意味合いも少し見えてくる。

「自由になる自由」とは、自殺を指しているのではないかと想像するわけだ。

ふたりとも魂になれば、ずっと二人は離れることはない。

そんな怨念にも似た想いをあのフレーズで告白したのではないか、と想像するわけだ。

とはいえ、恋人と会えなくなったのは、死んだからなのか、浮気したからなのかは、本当のところはわからない。

けれど、主人公はあなたに会うことがもうできないのは確かである。

そんなあなたといま、唯一会えるのが夢の中だけ。

でも、自殺して魂だけになって、自由になれば、いつでもあなたに会えるし、変わらない気持ちを伝えることができる、と言っているわけだ。

魂になって、いつでもあなたに会えるようになったとき、降り続いていた雨は止む。

でも、そうしないと、雨が止むことはなく、癒えない渇きを抱き続けることになる。

あなたがいた未来を訪ねる頃には、あなたは魂だけになってるかもしれない。

が、その時、雨は止むのだ。

真夏に降り続けていた雨はそのときはじめて止んで、それはやがて長い通り雨だったのだと記憶されることになるのだ。

<追記>
おそらく今年発売された歌の2作は宇多田ヒカルのお母様である藤圭子さんについて歌われた歌である、と解釈された方が多いのではないだろうか。

そういう目でこの二作をみると、そういうふうにみえてくるし、多かれ少なかれお母様のことを意識して書いているような気がする。

宇多田ヒカルにとって、この二作はとってもパーソナルな作品であると感じていたからCDという形ではリリースせず、配信だけにして、しかもほとんどメディアなどには告知をしないでひっそりとリリースしたのかもしれない。

でも、それはただのバイアスであるのかもしれない。

「ひとつの大きな物語」によって歌詞の見え方というのは大きく変わる。

実を言うと、僕は今作の歌詞解釈をするにあたって、まったく宇多田ヒカル自身は念頭におかずに解釈したのだ。

極端なことをいえば、そのねーちゃんが書いたものだろうが、宇多田が書いたものだろうが、関係なく、そこにある歌詞を、言葉ひとつひとつを意味を考えてみた結果をここに記させてもらった。

実際は、お母様が亡くなられたという事実をすっかり忘れていただけなんですけどね。

いずれにせよ、大きなバイアスがかかると途端に見え方が変わってしまうなーというのはこの記事を改めて実感したことであり、「宇多田ヒカル」が書いた歌詞だからこそ、「お母様の死」が見えてくるっていうことは肝に銘じる必要があるなーと。

自由に音楽を聴いて、歌詞を考えているつもりでも、「名前」の影響力って大きくなってしまうわけで。

別に結論はないですけど。そう思っただけです。

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