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宇多田ヒカル「桜流し」について書いてみたい。

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ニューアルバム「Fantôme」は宇多田ヒカルにとって私信に近いアルバムだと語る。

そのアルバムの最後を締めるのは、今から3年前となる2012年11月、宇多田ヒカルが「人間活動」発表後に発表された最初のシングルである。

この歌は桜だけでなく、想いがこもりすぎたこのアルバムの「何か」を洗い流すために、アルバムの最後に持ってきたのだろうか。

それを踏まえて歌詞をみていきたい。

作詞:宇多田ヒカル
作曲:宇多田ヒカル

開いたばかりの花が散るのを
「今年も早いね」と
残念そうに見ていたあなたは
とてもきれいだった

もし今の私を見れたなら
どう思うでしょう
あなた無しで生きてる私を

Everybody finds love
In the end

あなたが守った街のどこかで今日も響く
健やかな産声を聞けたなら
きっと喜ぶでしょう
私たちの続きの足音

Everybody finds love
In the end

もう二度と会えないなんて信じられない
まだ何も伝えてない
まだ何も伝えてない

開いたばかりの花が散るのを
見ていた木立の遣る瀬無きかな

どんなに怖くたって目を逸らさないよ
全ての終わりに愛があるなら

以上である。

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この歌詞において見えてくる「あなた」の情報はふたつである。

あなたはもう二度と会えない存在であるということ。

あなたとは昔からの付き合いがあり、昔の私を知っている(そして、今の私はもう知ることができない)。

以上のことから、どうみても、あなたはもう亡くなった人であり、私と近しい距離にあった人であるように見える。

「花束を君に」「真夏の通り雨」、そして「道」では、あなたとは母親のことである、ときっぱり明言した宇多田ヒカル。

この歌もぶっちゃけあなた=母親としてみても筋が通るような歌詞の構造になっているように見える。

ただし、藤恵子さんが亡くなられるのはこの歌が発表されたおよそ1年後のことであり、この段階では藤恵子さんはご健在である(ただし、相当なうつ病に悩まされたという話であるが)。

さて、この歌自体は「エヴァンゲリオン新劇場:Q」のために書き下ろされた楽曲であるが、この映画の監督である庵野秀明の意向により、宇多田はほとんど映画のストーリーは知らないまま作詞をしており、「映画の展開には沿わず、今、宇多田が思うこと、感じていることを歌詞にしてほしい」というオーダーでこの歌詞を書き上げたという話なので、エヴァからこの歌詞の内容を探るというのはあまり得策ではないように思われる。

また、この歌単体で歌詞を考えてみるのと、発表される新しいアルバムを通して考えてみるのとでは、また歌詞の意味合いが変わってくるように感じる。

確かにこの歌は母親の死、結婚、出産を経験する前に発表された曲であるが、この歌に込められたメッセージはそれらの要素を内包した歌詞のようにも見えるし、むしろどの歌詞よりも的確にそれらのことをテーマに扱った歌詞のように見えるわけだ。

ちなみに宇多田ヒカルは「人間活動」を宣言するとき、このような言葉を述べていた。

「自分の力で生きたい。色々と知らないことがあるまま生活しているので、1人でも生きられるようになりたい。」「有名人になってからの数十年、どんどん自分が見えなくなっていった。全然自分のことを理解できてなかったし周りの人たちのこと『知ろう』としてなかった。苦しい、寂しい生き方をしてしまった。まだ若いうちに気付けてよかった」

だから、人間活動を宣言します、という話である。

この歌における「あなた」が誰を指すのかは定かではないが、自分が若い頃からお世話になっていた人との決別を宣言するこの歌は、人間活動を表明したときに述べた宇多田の言葉を代弁するかのように、重なり合っているように見える。

桜とともに流そうとしているのは「過去にある“負”の何か」なのだろうし、それを流すことができるからこそ、新しい何かを迎えられることができるということが書かれているように見える。

宇多田は実生活において母親の死という喪失を経験し、自分のお腹のなかに新しい生命を宿すという、まさしく桜流しの歌詞にあるようなことを経験することとなった。

あえて友達であることを表にしてこなかった椎名林檎との、これほどまでにわかりやすい形での「共闘」のアピールを今回のアルバムでしたということも、人間活動を経ての結果であり、それは周りのことを『知った』今の宇多田だからこそ、できることだったのだろう。

おそらく今回のアルバムは「私信」であるゆえ、色々ときついテーマ、重いテーマを扱っていることだろう。

そんなすべてを「洗い流す」という意味でも「桜流し」は機能している。

歌詞の最後のメッセージが「全ての終わりの愛があるなら、目を逸らす必要なんてない」というのは、自らに言い聞かせた言葉なのかもしれない。

結局、この歌については何にもかけていないように見えるが、おそらく書いた本人である宇多田こそが、この4年間でこの歌詞の「意味」を大きく変容させたのではないかと思うわけだ。

結果として、ここに綴られた言葉に導かれるようにして、宇多田が人生を歩んでいるということ。

今はそれだけが事実であり、それがこの歌の本質なのかもしれない。

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