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レキシが2016年6月22日(水)にニューアルバム『Vキシ』をリリースする。

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約2年ぶりとなるレキシのフルアルバム。

今作も色んなアーティストとコラボをするわけだが、この記事で取り上げたいのは“ネコカミノカマタリ”と銘打ったキュウソネコカミとコラボした楽曲「KMTR646」である。

Youtubeなんかでも動画が公開されているし、ラジオなんかでもバンバンとOAされている楽曲である。

両組とも「ライブが面白い」ことに定評があるが、果たしてどんなに面白い楽曲が出来上がったのだろうか。

歌詞にスポットを当てて、みていきたい。

考察

歌詞をみたら、良く韻を踏んだ歌である、ということはご理解いただけただろうか。

しかもAメロでは「たり」、サビでは「いるか」で韻を踏むというあまり類を見ない韻の踏み方。

このふたつの言葉で、ここまで韻が踏めるアーティストもなかなかいないだろう。

やはり、普段から言葉に真摯と向き合っている池ちゃんとセイヤさんだからこそできる芸当である。

ファンク成分薄めでキュウソのバンド音が強すぎるけれど、それゆえ乗りやすい楽曲になっているし、メロディーの良さが際立っていような感じがする。

特にBメロの惹きの強さは随一ではなかろうか。

これは今年の夏フェスでも大盛り上がりになること間違いなしである。

閑話休題。

歌詞の話をすると、レキシの楽曲って、歌詞のテーマは歴史的事象から出発しているんだけど、その歴史ワードをうまく解釈することで、現代にも通じる普遍的なメッセージにたどり着かせることが多い。特に最近は。

それこそBメロの歌詞にはこの歌のメッセージが詰まっているといっても過言ではないだろう。

ちなみに、この歌の歴史ワードは「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」であることがわかる。

さて、ここで中臣鎌足って誰?という人のために簡単に人物の説明しておこう。

このお方は、飛鳥時代の政治家であり、色んなすごいことを成し遂げたのだ。

主な功績として「大化の改新」という政治改革を行ったことが有名である。

さて、次に問題になるのは「大化の改新」ってものがそもそも何かということである。

名前は聞いたことがあるけど、どういうものなの?という人のために一応の説明をしておくと、この政治改革によってそれまでの慣習の幾つかを大きく変えたのである。

例えば、国の区分を国と郡に分けたり、豪族が支配していた土地や人民を国家が直接支配するという、要は国家というものに強い力を持たせ、その機能をより具体的にさせて政治改革を行ったみたいな捉え方をしておけばよいだろう。

現代におきかえたら、大阪を府と市にわける大阪都構想がイメージに近いかもしれない。

で、それって政治的に良い変化だったの?とか歴史的意義はどうだったの?とか色んな疑問が噴出するかもしれないが、そこまでいくと本題とずれてしまうので、また別の機会に説明できればと思う。

押さえてほしいのは、この歌は「中臣鎌足」と「大化の改新」という歴史ワードを扱っているということである。

そしてこの歌はもうひとつ歴史ワードを扱っている。

蘇我入鹿(そがのいるか)という言葉である。

この人も飛鳥時代に活躍した豪人であり、大化の改新について調べると絶対に出てくる人物の一人である。

ちなみに、サビ韻踏みで出てくる「いるか」という言葉は、こいつの名前から出てきたものである。

さて、こいつはどんな人であったのかを簡潔に説明すると、「大化の改新」が起こる前夜に、中臣鎌足らによって殺害された人物である。

要は蘇我入鹿とは豪人であり、国家よりも大きな力を持っていた人物だったわけだ。

大化の改新は豪人が支配していた土地を国家が支配するようにしたものである、という説明をしていたが、要は豪人がもっていた力を国家が吸収したのが大化の改新の意義であり、おおざっぱに言えば、中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害したことによって、大化の改新を成すことができた、というわけである。

飛鳥時代のおおまかな政治を抑える上で必須といえる「中臣鎌足」と「大化の改新」と「蘇我入鹿」という三つのキーワードをこの歌は盛り込んで歌詞を書いていったわけである。

ただし、蘇我入鹿に関しては単語の音だけをフィーチャーした。

そのため、蘇我という言葉は使わず、「いるか」というキーワードだけ拝借されている。

ちなみにサビできゅっきゅっきゅーと歌っているのは、動物のイルカの鳴き声を意識したものだと思われる。

つまり、サビでは韻を踏みつつ、ダジャレも行うというかなりハイレベルなことを成しているのである。

さて、歴史ワードをふんだんに用いて今回の歌詞は作られたわけだが、大化の改新という政治的な動きについて歌うのはあまりにも血なまぐさくなるため回避されており、あくまでも大化の改新とは「変革」「生まれ変わること」の言い換え、比喩のひとつのような使い方をすることで、未来への希望を歌う普遍的なメッセージの歌に上手く消化されている。

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また、飛鳥時代をテーマにしているため、その頃に貴族たちの間で流行った遊びである「靴飛ばし」や「蹴鞠」が歌詞に登場している。

節々にもこういう言葉を使うことで、歴史性あふれる歌詞の世界観を構築しているのである。

ところで、歌詞の最後は「今度生まれ変わったら君と蹴鞠で遊ぼうか」とあるが、これって「変革」の犠牲者となった蘇我入鹿の供養の言葉にも聞こえてくる。

「全てを変えることはできないけれど、こんなことならできるよ。だから、自分でできる範囲でいいから変えれるところから変えていこうよ」みたいなメッセージをBメロで歌っているわけだが、その一方でサビでは、「変わることによって何かを失ってしまうこともある」ことを意識させており、変わることで消えることになってしまったものに対しても慈しみの気持ちを忘れないように、という言葉を投げかけて締めくくっているような感じがするのだ。

サビの最後に何気なく登場する「蹴鞠」という言葉。

蹴鞠とは丸いものであり、丸とは循環を現す記号であり、輪廻を象徴させる記号となる。

しかも蹴鞠って弾みやすくて、どこに飛ぶのか予測しづらいのだとか。

僕と君が生まれ変わって出会ったら今度は蹴鞠をして遊ぼうというのは、飛鳥時代の大化の改新では殺す・殺されるの関係だった鎌足と入鹿のことも指していて、歴史が変われば、こんなふたりでもピースな関係が築けるという意味合いも込められているのかもしれない。

政治的抗争に負け、空で泣いていた入鹿に向けて、鎌足が平和の世の中で出会えたら蹴鞠をして遊ぼうよ、本当は友達になりたかったんだから、僕らは。みたいなことを言っているのだとしたらなかなか感動的なドラマではなかろうか。

レキシの歌の裏テーマって実は「平和」であり、レキシの「HEY」は平和の「平」って意味も込められているとか言ってた気がするので、きっとそういうことなのだと思う。

そして、これは鎌足・入鹿だけでなく、現代に生きている我々も考えるべきことなのである。

僕たちの未来はまるで蹴鞠のように予測が難しく、世界も明日も簡単には変えることができず、暗澹な未来が待ち構えているかもしれないけれど、ピースな気持ちは忘れず、大きなことは無理でも君のためとかそれくらいのことなら変えれることもあるはずなので、飛ばした靴を拾うくらいの覚悟でいいから、未来を一歩一歩たしかに踏みしめていこうよ、みたいな歌なのかもしれない。

レキシとキュウソがコラボしたのに、オモローじゃなくてめっちゃ深い歌になってるやんけ。

どういうことやん(ただの深読みしすぎ)

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