フジファブリックの最近の動きが慌ただしいように感じる。

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1年以上先にある大阪城ホール公演の開催を発表したり、フジファブリックのフロントマンである山内総一郎が急にTwitterを始めたり。

そんななかでリリースされた「手紙」という楽曲。

すごくメッセージ性の強い歌で、個人的に思うところがあったので、今回は、そんな「手紙」という楽曲の個人的な感想を書いてみたい。

なお、この感想はあくまでも個人的な所感なので、その辺りを汲んで読んでもらえたら幸いである。

誰に書いた手紙なのか?

この歌に関して、他の媒体で山内がどんなコメントを発表しているのかは知らないが、タイトルが「手紙」である以上、この歌は山内総一郎が誰かに宛てた「手紙」なんじゃないかと思うのだ。

冒頭はいきなり、このフレーズ。

「元気でやってますか 笑えてますか」

このフレーズだけで、この手紙を宛てた君は、僕とは遠い距離にいる、ということがわかる。

上京してからなかなか会えなくなった地元の大切な人に手紙を送った感。

山内は地元が大阪だしね(だから、大阪城ホールのワンマンは悲願なのである)

歌詞を読み進めていくと、通り雨のようないがみあいやケンカをしたこともあった旨、けれど二人はふざけあうこともあった旨、そんな記憶が少し薄らいでしまうくらいに長いこと君に会えていない旨が記されている。

サビには「さよならさえも言えずに」とあるように、君との別れは、さよならを告げられずに唐突に訪れたことがわかる。

切ない話ではあるが、人との出会い別れとはそういうものなのかもしれない。

さて、幾つか気になるエポックを抜き出してみたが、「君とは誰なのか?」というのが、この記事での最初の問いたてである。

元カノなのか。親友なのか。家族なのか。

それとも、それとはまったく違う、別のレベルでの大切な人なのか。

もう少し考えていく必要がある。

変わらない街と、変わっていく空

歌詞を細かく見ていくと、君はずっと「変わらない街」にいることがわかる。

この「変わらない街」というフレーズは曲中に2回出てくるんだけど、2番のサビで「変わらない街でもずっと笑っていてほしい」とあるため、君は「変わらない街」にいることが決定的となる。

ところで、なぜ君のいる街は「変わらない」のだろうか?

田舎だからなかなか発展することが難しいからなのだろうか?(確かに山内の地元の茨木市はそんなに発展した街ではないけれども)

うーん。でも、それが理由で変わらない街って形容するのは少し乱暴な気がする。

確かに都会に住んでると田舎の変化は「変わらない」に等しいのかもしれないけれど。

でも、そんな乱暴な言い方を山内はしないと思うのだ。

であるならば、君がいる場所は田舎とかではなく、もっと別の場所なのではないか?

例えば、天国とか。

もし仮に、君が既に亡くなっているのだとしたら、君の住む街が「変わらない」ことにも納得がいく。

それなら、最後のサビで、わざわざ「夏の空に君を探す」ことも納得がいくし。

ちなみに、この歌、空というモチーフをすごく丁寧に使っている。

1番は太陽→通り雨→夕暮れという言葉を使うことで、空に変化を与えている。

ラストのサビでは夏の空→夕暮れという流れに仕立てている。

何もかもがある街にいる僕が、変わらない街にいる君に、変化していく空を見ながら、君に想いを馳せるというのが、この歌の構造なのである。

そんな構造をこの歌から見出したとき、僕はあるボーカルのことを頭に思い描いた。

まず、この歌に出てくる「何もかもがある街」とは東京のことを指しているように僕は感じた。

そんな東京の空から見えないこともない星を見つけ、短い夏が終わっても子供の頃の寂しさは感じないくせに、夕方の5時のチャイムを聞くと胸に響き、最後の花火が打ち上がる、同じ(夏の)空を見上げたそんなフレーズを書いた某ボーカルのことを、僕は思い描いた。

だってさ、ラストのサビに書いてあるもん。

「じゃれながら笑いながらも同じ夢追いかけて
旅路はこれからもずっと続きそうな夕暮れ」
って。

僕と君は「同じ夢を追いかけ」「同じ旅路を続ける」って言ってるんだよ。

山内と同じ夢を追いかけていたんだよ、君は。そう考えると、君って元カノでもなければ、友達でもなければ、家族でもないわけで。

そりゃあ、嫌でもあのボーカルのこと、頭に掠めるよねって話。

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また歌えそうな夕暮れについて

先ほどもちらっと言葉にしたが、この歌は志村時代のフジファブリックを意識させるようなフレーズが幾つか散見されるし、志村の影がチラチラちらつく歌になっている。

だから、サビでは「さよならだけが人生」なんてフレーズを言っているのかもしれない。

さよならさえも言えないさよならを経験したけれど、それでもフジファブリックは旅路を続けてきた。フジファブリックはそういうバンドだったから。

そんなフジファブリックであるが、あえてあれから時間を動かしていないことが幾つかあって。

そのひとつが「茜色の夕日」という歌の扱いである。

この歌は、おそらく新生のフジファブリックになって披露したのは一回だけで、それはフジファブリックの10周年に行った武道館ライブのときである。

この時にこの歌を披露したときも「今日は志村くんと一緒に曲をやろうと思います」と山内が言い、ステージ上に志村が愛用していたハットが掛けられたマイクスタンドが置き、志村のボーカルの音源を流しながら、メンバーがその音源に合わせて演奏をする、と特別仕様でこの楽曲を披露したのだった。

ちなみに、この日の武道館ライブでは、山内は志村が使用していたギターでプレイしていた。

そんなことも踏まえながら、手紙のサビの「もう何年も切れたままになった弦を張り替えたら君ともまた歌えそうな夕暮れ」というフレーズを聴いてみたら、色んな思いが胸を掠める。

武道館以来、一緒に歌わなかった「夕暮れの歌」。何年も弦が切れたまま放置されたギターをもう一度背負って、大阪城ホールで「夕暮れの歌」を歌う姿が、僕にははっきりとイメージされた。

手紙のイントロが、ギターのストロークを行った後に、ドラムのカウントを入れるという不思議な構成を取っているのも、おそらくはこのフレーズを受けてのことだと思われる。

まとめ

この歌が誰に向けた手紙なのか。

それは聴き手自身に委ねられるものだと思うし、聴き手の数だけストーリーがあるのだとは思う。

けれど、街と空の描き方にこだわり続けた志村の歌詞をなぞるように山内が似たようなモチーフで言葉を紡ぎ、はっきりと志村の影を意識させるフレーズを幾つか並べたことは、ただの偶然ではないと思う。

真相はわからないけれど、僕はこの歌を山内が志村に宛てた「手紙」なのだとはっきりと感じた。

だから、15周年はホール大阪城でライブをやるし、このタイミングで情報解禁をしたのかなーなんて思った、そんな夏の夕暮れ。

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