LINEで送る
Pocket

アジカンの新曲「荒野を歩け」の歌詞について書いてみたい。

スポンサーリンク

この歌は映画「夜は短し歩けよ乙女」の主題歌でもある。

そして、ゴッチはこの歌を作るに当たって、しっかりと原作を読んだうえで作ったとのこと。

で、この作品は不思議な作品だから、「俺も不思議な感じになるように書こう」と考え、この歌詞を書いたのだとか。

なので、パッと見たら、意味がよくわからないフレーズも多いのである。

そんなことを踏まえながら、歌詞をみていきたい。

作曲:後藤正文
作詞︰後藤正文

あの娘がスケートボード蹴って
表通り 飛ばす
雨樋 するっと滑って
ゆるい闇が光る

雨樋で滑るということは、あの娘は屋根の上を走っていたということだろうか?

それとも、最初は表通りを走っていたのに、調子にのって雨樋を伝って屋根にまで登ろうとしたのだろうか。

いずれにせよ、流石にヤンチャすぎやしないかと少し思う。

闇がゆるいということは、薄く目をつぶっている状態だから、光も入ってきているような闇という感じだろうか。

だから、「闇が光る」なんていう際どい表現をしているのである。

調子にのって雨樋をつたって屋根に登ろうとしてこけてしまい、驚いて薄く目を瞑っていたら、闇の中に光が入ってきた、という感じのフレーズである。

背伸びでは足りないボーイズが
世界を揺らす
「君らしくあれ」とか
千切ってどこか放す

最初のフレーズは「あの娘」の話をしたのに、次のフレーズでは「ボイーズ」の話をすることで、視線にも揺さぶりをかける。

このボーイズ、背伸びでは足りないということは、相当に大きな夢を抱えた、ビックマウスなのであろう。

「君らしくあれ」なんて安っぽい言葉は無視して、己のやりたいことをひとつずつ行動に移すわけだ。

自分らしくなんて二の次であり、夢を叶えるのに必要な努力なら進んで行うわけだ。

このボーイズは、ただのビックマウスではない。

意識の高いビックマウスなわけである。

理由のない悲しみを
両膝に詰め込んで
荒野に独りで立って
あっちへ ふらふら また
ゆらゆらと歩むんだ
どこまでも どこまでも

どんなことであれ、行動する動機にあるのは「理由のない悲しみ」なのかもしれない。

例えば、バンドマンはたくさんの人に音楽を聴いてほしいと願うわけだが、その本質はたくさんの人に認められたいという動機からだと思う。

なんでそんな動機を持つようになったのだろうか?

そいつはみんなから無視されていたからであり、なんとか自分のことを認めさせてやりたいなんて考えるようになったのだろうか。

たぶんそんなことはなくて、仮に親からも可愛がられ、友達もそれなりにいて、自分のことだけ見てくれる恋人がいたとしても、「認められたい欲望」は満たされず、そんな動機を持つようになるのである。

それを突き詰めて考えると、それは「理由のない悲しみ」という言葉に還元されるのかもしれない。

理由はわからないけど、なんか満たされないから、渇望し続け、それを夢にして行動に移すわけだ。

この主人公の本当の意味での「動機」はわからないが、現状として夢を目指して行動に移しているわけだ。

その旅は何もない広大な荒野を進むような、果てしないものであり、ゴールにたどり着くのかもわからない厳しい道のりなのである。

ゴールがわからないから、一点を見据えてもくもくと進むのではなく、あっちいったり、こっちいったりしながら、傍目からは「大丈夫かな?」と思われてしまうような歩みで、ゆらゆらと進むわけである。

ただし、どれだけゆらゆらしてもその歩みを止めることはない。

諦めてしまい、歩く自体をやめることはしないわけだ。

町中のかがり火を
胸の奥に灯して
この世のエッジに立って
こっちへ ふらふら また
ゆらゆらと歩むんだ
どこまでも どこまでも

エッジということは、端っこ、ということになる。

世界の端っこに立つということは、それくらいゆらゆら歩いてるということを指し示しわけである。

「かがり火」は希望の象徴であり、胸の内には常にポジティブな気持ちを抱いている、ということを意味してるのだろう。

意識としてはそれくらいの感じで、けれど、歩みはゆらゆらとしたもので、それでも夢に向かって突き進むわけである。

スポンサーリンク

歌詞の続きをみてみよう。

背面三回宙返り
着地をミスした道化師の表情が
ちょっと曇ったように見えた
翻る万国旗の合間
祈るよ 彼の無事を

背面三回宙返りというのは、要は意見や態度をころころ変える奴のことであろう。

だから、道化師という言葉と結びつくわけだ。

で、そいつは夢をみてゆらゆらと進む奴をバカにしてきたんだろうけど、あまりにも諦めないので進み続けているので、「やばい。奴は本気で夢を叶えるのかもしれない」と思い、あれの態度は間違っていたのではないかと焦り、その表情に「余裕」がなくなってしまうのである。

「祈るよ 彼の無事を」というのは、道化師とはまた違う視点の人物の言葉であり、こいつは夢に向かって進む奴のことを「応援するよ」と言っているのである。

僕たちはどうだろう?

一旦ここで自問するわけだ。

僕たちは道化師側になるのか、夢を向かって進んでる奴を応援する側になるのか、夢をみて進む人間側なのか、を。

あの娘がスケートボード蹴って
表通り 飛ばす
いつしか僕らの距離が狭まって
ゆめゆめ 思わぬ 未来が呼んでる
歌えよ 踊れよ
ラルラルラ

夢を目指す前は、誰だって表通りでスケートボードを漕ぐような「普通の子供」だったわけだ。

けれど、その子供もどこかのタイミングで「夢追い人」に変わったわけである。

思わぬ未来とは、そういう「変化」のことを指すとともに、いまはまだ子供のスケートボードのあの娘と、夢に向かってゆらゆら歩くビックマウスなボーイズが出会う可能性だってあることもここで示唆するわけだ。

要はどんな未来が起こるのかわからないという話である。

歌って踊る、という「行動」をしていれば、未来は想像していた以上のものに転がることを示すわけだ。

理由のない悲しみを
両膝に詰め込んで
荒野に独りで立って
あっちへ ふらふら また
ゆらゆらと歩むんだ
どこまでも どこまでも

まだ自分のいる場所は「荒野」であり、それこそその場所が夢に繋がるのか、もっとみっともない世界に繋がるのかも実はまだわからない。

ここからどんな想像力をもって、どんな行動するかによって変わるわけだ。

ここで歌われるのは「どこまでも進むこと」だけなのである。

あの娘がスケートボード蹴って
表通り 飛ばす
雨樋 するっと滑って
ゆるい闇が光る

ラルラルラ
ラルラルラ
ラルラルラ

だから、この歌の最後は「ゆるい闇」という言葉で締めくくられる。

大きな希望を歌うわけではないのだ。

だって、いまいる場所は何にもない荒野であり、ゴールがどこかわからないからあっちへ行ったりこっちへ行ったりゆらゆらしてるわけだ。

下手すりゃ未来はとんでもない失望に満ちたものになる可能性だってあるわけだ。

でも、それもまだ「可能性」という話であり、逆にすごく大きな野望を果たす可能性だってあるわけだ。

つまり、現状は闇のように暗いものに見えるかもしれないけれど、そこには明かりのようなものもあるにはあるわけであり、だからこそ闇はまだゆるく、闇なのに「光るもの」もあるのである。

結論。

夜は短し歩けよ乙女、ということなわけだ。

つまりわ歩けば夜は終わり、きっと細やかな光がどこかにみえるよ、という話なのである。

だから、とりあえず「荒野を歩け」という思いを伝えたくて、この言葉をタイトルにしたのではないか、と勝手に思っている。

スポンサーリンク

LINEで送る
Pocket