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君の名を見たので、その感想みたいな雑記を簡単に書いてしまいたいと思う。

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多かれ少なかれネタバレを含んでいるので、それが嫌いな人はこの記事は読まない方がいいかもしれない。

前前前世について

それにしても、新海誠監督は本当に人と人の距離を描き方が上手いなあ、と思うわけだが、個人的には、あるミスリードによって、この物語の内容を勘違いしていた。

どういうものかというと、ぼくが思っていたのは、男の子と女の子がいてその二人が入れ替わる、というのが話のキモなのだが、男の子は平成の「今」に生きている人間で、女の子は「今」から約300年前くらいに生きていた人間で、僕と君とは時間的に大きな差があり、実は男の子の前前前世がその女の子に当たるのだと思っていたのだ。

時間を超えて出会った二人。実はその二人は同じ魂を持った人間だった。絶対に出会うことのない二人は、ある意味自分と言っても差し支えのない人間を愛してしまった、という究極の愛がこの映画のテーマだと思っていたのだ。

が、ふたを空けてみれば違っていた。

なんでこんなことを考えたのかといえば、「前前前世」の歌詞のせいである。

まんまと野田洋次郎のミスリードにしてやられたというわけだ。

映画をちゃんと見てから前前前世の歌詞を見てみたら、この歌、全然映画とは関係のないことを歌にしているやん、ということに気づいたのである。

ちなみに映画を見る前に、この歌についてはこんなふうに解釈をしていました。

こちらです。

RADWIMPS(野田洋次郎)はこの映画に歌ものの曲を4曲書き下ろしていている。

「前前前世」「なんでもないや」「スパーク」「夢灯籠」というタイトルの4曲なのだが、映画ではしかる場所でこの音楽がほぼフル尺が流される。

個人的にはこの音楽の使い方が致命的に「ダメ」だと思っているので、(せっかく映画の世界に入り込んだタイミングでRADの歌がかかるのがなんとも邪魔なのだ。歌が悪いのではなく、使うタイミングと、その尺、そしてその回数が悪い)なんとなく勿体ないなあなんて考えているのだが、ひとまずそれは置いておこう。

それぞれの曲の歌詞を読んでみると、どれも映画の内容に関わっているような書き方をしているように見せかけて、微妙に内容から外してきているような歌詞を書いている。

この辺、野田の秀逸さが見えるわけだが、映画を見たあとに、野田洋次郎がAimerに提供した「蝶々結び」の歌詞を読んでみると、これこそまさしく「君の名。」の物語のキモに触れた歌詞だと感じてしまうのである。

なんならこの歌詞が一番ネタバレしているといっても差し支えないかもしれない。

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では、どんな歌詞かみてみよう。

「蝶々結び」の歌詞

作詞:野田洋次郎
作曲:野田洋次郎

片っぽで丸を作って しっかり持ってて
もう片っぽでその丸の後ろを ぐるっと回って

間にできたポッケに入って 出て来るの待ってて
出てきたところを迎えにきて 「せーの」で引っぱって

はじめはなんとも 情けない形だとしても
同じだけ力を込めて

羽根は大きく 結び目は固く
なるようにきつく 結んでいてほしいの

腕はここに 想い出は遠くに
置いておいてほしい ほしいの

片っぽでも引っ張っちゃえば ほどけちゃうけど
作ったもの壊すのは 遥かに 簡単だけど

だけどほどく時も そう、ちゃんと 同じようにね
分かってるよ でもできたらね
「せーの」で引っ張って

ほどけやしないように と願って力込めては
広げすぎた羽根に 戸惑う

羽根は大きく 結び目は固く
なるようにきつく 結んでいてほしいの

夢はここに 想い出は遠くに
気付けばそこにあるくらいがいい

黙って引っ張ったりしないでよ
不格好な蝶にしないでよ
結んだつもりがほどいていたり
緩めたつもりが締めていたり

この蒼くて広い世界に 無数に 散らばった中から
別々に二人選んだ糸を お互いたぐり寄せ合ったんだ

結ばれたんじゃなく結んだんだ
二人で「せーの」で引っ張ったんだ

大きくも 小さくも なりすぎないように
力を込めたんだ

“結び”について

「君の名は。」の内容について考える上でもっとも重要なキーワードのひとつは「結び」である。

これは映画をみた人なら、ほとんどの人が了解するのではないだろうか。

色んなところで色んなものを「結んでおり」、色んな場面で「結ぶ」モチーフを登場させてふたりの繋がりを巧みに画面上に描いているわけだ。

そんな重要なキーワードである「結び」。

そのキーワードをテーマにして野田洋次郎が曲を書いたのがAimerの「蝶々結び」なわけである。

意図的にしろ無意識的にしろ、君の名は。との関係性が見えてくるのも無理からぬことである。

もしかしたら「蝶々結び」も映画用に書き下ろしていたが、メロディーが映画とそぐわないという理由でボツになったのではないかと勝手に予想しているのだが、実際のところはどうなのだろうか。

さて、この「蝶々結び」の歌詞を読んでみればわかるのだけど、この歌詞に出てくるふたりってまるで瀧と三葉のことを指しているように見えてくるわけだ。

思えば、ふたりの関係というか距離って、それこそ蝶々結びのようにどちらかが強く引っ張れば簡単にほどけてしまうような、危ういものだったわけで、ふたりの「結び」ってたさしく蝶々結びのようなものだったわけだ。

最後のエンディングに思いをはせながら「この蒼くて広い世界に 無数に 散らばった中から 別々に二人選んだ糸を お互いたぐり寄せ合ったんだ」というフレーズなんてあのエンディングにすっぽりも収まるではないか。

3年ぶりの距離を画面上に示したかのように、最後、階段の上と下で瀧と三葉は出会うのも、ずっとどちらが強く求めすぎず、「せーの」と声を揃えて引っ張るかのように、少しずつ時の流れに身を委ねたからなのかもしれない。

あと、この本文とは関係ないけど、三葉が使っていたパソコンはマックだったんだけど、田舎でもマックの普及率って高いんだろうか。

歯医者もない田舎でマックを使うなんてシャレすぎじゃね?と思ったんだけど、実際のところどうなんだろうか。

あと、やたらとドアを閉めるとき絶対のドアの横側からのショットで描くようにしてそこに「切断」のイメージを持たせるようにしてた気がしたり、小津安二郎っぽい足の裏を見せるような低めのショットあったり、自転こぐ三葉を下から舐めるように見せて、ギリギリパンチラさせたりしたりしたのは何の意図だったんだろうか。

あと、なぜあの男の子と女の子が入れ替わったのだろうか。

女の子はそういう家系であり、そういう宗教的な力が兼ね揃えられていたからわかる。

けれど、男の子にはそういう伏線はまったくないわけで。

そういう物語なんだよ、という説明にするくらいな前前前世の歌詞になぞられ、実はあの二人は同じ魂の存在なんだとか言ってくれた方が良かった気がする。

そういえば、新海誠はこの映画であえてメッセージを語るとすれば「本当に大切な人はまだ出会っていない人の中にいるし、まだ出会っていない人の中に自分の人生を大きく変えるような存在の人は絶対にいる」とかそんなことだと言っていた。

単純化すれば、未来への希望がテーマとのこと。

別にオチはありません。

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