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雑誌をぺらっと読んでみると、何やら難しいことをいっぱい語っているトシロウ。

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自分とは何なのか?何のために生きるのか?そういう答えの出ない哲学に対して真っ向から応対する、これはそんなアルバムなんだ、みたいな話。

いや、そんな話じゃなかったかもしれないけれど、僕はそんなふうに読んでいた。

考えてみたら「梵歌」なんてアルバムタイトル、どれだけ偉そうなんだよ、という話で。

たぶん、この100年で、こんな偉そうなアルバムタイトルをリリースするのはBRAHMANだけなんだろうなあ、なんて思う。

ちなみに、この「梵」という言葉はブラフマンの漢訳であり、自分たちのバンド名をアルバムタイトルにしたとも言えるわけだ。

そんなタイトルのそんなアルバムなんだから、大層な名作なのだろうとワクワクして聴いてみたわけだが。

「微妙……」

怒られるかもしれないけれど、最初、このアルバムを一周して聴いたときはただただダサいなあ、って感じた。

もしかしたら、トシロウがインタビューで言ってたことに引っ張られながらアルバムを聴いていたから「う〜ん」って思ってたのかもしれないし、単に音のセンスやメロディーラインに「ダサさ」を感じただけなのかもしれない。

ただ、最初はダサいと思っていたこのアルバムの楽曲群も、アルバムを二巡目するときには違って聴こえていた。

実はそのとき、はっきりとこのアルバムの物語が見えたのだ。

それは、トシロウが雑誌なんかで語っていた話とは少し違う物語だった。

これが正しいとか正しくないとかではなくて、僕はこんな物語をこのアルバムに見たんだよ、このアルバムを聴いてこんなふうに感じたんだよ、ということを書き連ねてみたい。

「真善美で語る新たな門出」

一曲目は「真善美」という歌。

この歌はやたらとイントロが長い。

BRAHMANらしいギターのアルペジオが効果的に聴いたイントロである。

そんな長いイントロの後にくる、真善美の最初のフレーズ。

さあ 幕が開くとは
終わりが来ることだ
一度きりの意味を
お前が問う番だ

生まれ落ちた理由を
終わり消える理由を
問い続ける理由を
始まる理由を
さあ

このフレーズが、今回のアルバムのメッセージを全て内包していると言っても過言ではないのではないか?

生きていれば絶対いつか死ぬわけだけど、死ぬということに対して「どうせ死ぬんだから」と惰性的で悲観的になってしまうのか、死ぬからこそ生きることに全力でまっとうするのか、人生という「一度きり」を、お前はどうするのか?

トシロウは聴き手にそう訴えかける。

トシロウはMUSICAのインタビューでこんなふうに語っている。

「やっぱり『続けていく』、『生きていく』っていう意志のもとでないと、すべてはよくなっていかないんだよ。でも一方では、『死ねば終わる』っていうのがある。ならばなおさら、自分の意志で続けていくことに言い訳はしたくないしさ。それは、20代の時の刹那的だったものとは違うんだよね。むしろ、すべてが刹那的過ぎてやる気なくなっちゃったりしてたもん(笑)。どうせ死ぬのになんで?ってヘコむこともあったわけだけど……今は、いずれ死ぬんだったらやるしかねえだろって思う」

BRAHMANは死ぬことに対して、こういう答えを提示した。

さて「お前はどうするのか?」。それを改めて問うわけだ。

個人的にすごく驚いたのは「俺達はまるで夢で逢えたような 友よ喜びを 別れ嘆く前に」というフレーズだ。

「俺たち」という人称も驚きだったし、「友」という言葉を屈託なく使う姿勢にも驚いた。

BRAHMANが他人との関わり方を大きく変えていったのは東日本大震災のボランティア活動が大きくあるとは思うけれど、それでも「超克」のときは、ここまで「丸い言葉」は使っていなかった。

この5年で彼らはさらに変わったわけだ。

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ところで「俺たち」に入る「たち」というのは、BRAHMANの周りにいる仲間や復興活動で出会った人たちだけでなく、ライブに来てるお客さんや、このアルバムを聴いているリスナーに含めての「俺たち」なんだろうなあ、と思う。

そこまで含めて「身内」という意識があるからこそ、この曲は「お前」に向けて言葉を放つわけだ。

次の「雷同」でも「テメェ」なんて二人称を使っているしね。

そんな「雷同」で示すのは、仲間っていうのは、ただ単に「自分の周りにいる都合の良い奴ら」でもなければ、群れてダラダラするための道具でもないと訴えている。

他人と交わるから自分の価値もわかるけれど、行動を起こすというその本質は自分じゃないとできないし、生きることも死ぬことも結局は「一人」なわけで、だからこそ「一人歩む」ことの大切さも強く述べている。

けれど、それは孤独ではない。

むしろ「一人歩む」からこそ、しかるべきタイミングでしかるべき「仲間」が寄り添うのかもしれない。

トシロウに細美という彼女ができたのだって、まさしくそういう話なわけで。

アルバムの1、2曲目では、そんな「震災以後の変わっていったBRAHMAN」を堪能できるんだけど、3曲目は久しぶりの英詞ということもあって、どこか妙に昔のBRAHMANっぽさがある。

そんなこともあって、僕は勝手ながら「EVERMORE FOREVER MORE」こそが、このアルバムの一曲目のように感じて聴いている。

これが、僕がこのアルバムで見た物語だ。

次の「AFTER-SENSATION」はどこか過去との決別、飛ぶ鳥跡を濁さずな感じがあって、それは英詞と決別したBRAHMANや、死生観を捉え直したBRAHMANの影がチラつく感じ。

「EVERMORE FOREVER MORE」が過去のBRAHMANと繋がる曲だとするならば、「AFTER-SENSATION」はそんな過去をある種決別して「違う道」に向かう感じ。

それは、今まではやってきたことに対する決別というよりは、例えば、震災がなければ自分はバンドを辞めていたかもしれないと語っていた、そんなあったかもしれない過去に対する決別のようなイメージ。

だから、一番と二番のサビはあえてリズムを落としているのに、最後のサビは「生まれ変わる」という言葉とともに、リズムを一気にあげている。

迷いもあった。選ばなかった過去に恐れていたものを見ていた。不安もあったし、泣くこともあった。

けれど、それでも進むことを決めた。

そんなことを訴えかけているような感覚。

だからこそ、まさしくBRAHMANが過去と対峙した「其限」を次にもってきているのは、象徴的であるように感じた。

ライブにおける「其限」のイントロは、トシロウの給水タイムとしての意味合いが強いけれども(基本ライブバージョンだと、イントロは長めに演奏されていて、絶対このタイミングで水を飲んでいる)この歌はBRAHMANの元メンバーだった二人に捧げた歌だと思っている。(この顛末を知るには、ドキュメンタリー映画「ブラフマン」を観ることを勧める)

BRAHMANが「仲間」というテーマを歌にすることへの迷いを捨てた、大きな分岐点の歌だと思っている。

そういえば、このアルバムのタイトルにもなっている「梵」=BRAHMANは、もう亡くなってしまった元メンバーが付けたものである。

過去を乗り越えた先に今があり、決別した仲間がいたから出会えた仲間もいて、失ったものは戻らないけれど、失ったものを自覚したからこそ、今あるものを大切にする感覚も生まれたわけで。

この曲順にある「其限」が伝えるメッセージは思いのほか大きいように感じる。

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「そして仲間の歌へ」

亡くなった「友達」について歌ったBRAHMANの歌といえば、「PLACEBO」が有名だが、そんな「PLACEBO」とも関わりの強い歌である「今夜」が、次にくるのはもっと象徴的だ。

この歌については、この記事で一通り書いているので、よければ読んでほしい。

面白いのは、「梵歌」と言いながら、このアルバムは「他人」のことを想いながら歌ってる歌が多いし、仲間と交わるようにして「梵」をより掘り下げていってる歌が多いこと。

もはや盟友であると言っても過言ではない細美武士から始まり、親交の深いKoとのコラボ曲や、BRAHMANにはもっていない音楽素養を兼ねそろえたスカパラとのコラボ曲を並べるなど、ここからやたらセッションが多い。

仲間と交わったから「変わったこと」と、仲間と交わっても「変わらない根っこのこと」をここで提示するかのようにセッションが並べられている。

そんな中、他人と交わることで(コラボしまくることで)BRAHMANが変わった結果が「不倶戴天」に現れている。

だって、ブチ切れモードのBRAHMANになっても、怨みだけでは何も解決はしないことを知っているし、どんな人にだって心があって生活があることを知っているからこそ、この歌の最後は「赦す」という言葉で締めくくられるわけだ。

雑誌のインタビューでトシロウはこう語る。

「孤独を感じたり死にたいって思ったり、痛いって感じたりするのは、それは人にとってもそうだよってわかるためのことなんだよ」

そうやって色んな人との交流のなかで「わかる」を積み上げてきたからこそ、不倶戴天になっても「赦すってことだ」って言えてしまえる強さを持ったのだろう、BRAHMANは。

もちろん、ただ仲間と出会えたからなだけではなく、「一人歩む」があったから気づくこともあったはずだ。

この6年の「一人歩む」の始まりは東日本大震災だろうし「ナミノウタゲ」では、そんな波にのまれた街のことを歌う。

この歌が、その活動のひとつの総決算なのかなーと個人的には思っている。

そして、このアルバムの最後を飾るのは「満月の夕」。

自分のバンド名がアルバムタイトルなのに、最後はカバー曲で締めるというまさかの事態。

でも、この歌も「梵歌」と言える自信があったから、このアルバムに収録したんじゃないかと思う。

だって本家を呼んできてセッションとしてるんだぜ?

「満月の夕」は阪神淡路大震災があったからできた歌で、この歌は23年前の復興の歌だった。

BRAHMANは6年前、この歌を「東日本大震災」でも歌うことで、この歌をバトンのように繋ぎ、そして、歴史をひとつ更新した。

たぶん日本に生きていればまた震災は起こるだろうし、今だって大雪でえらいことになっているし、そうじゃなくても生きていれば立ち上がらなきゃならない日なんていくらでもあって。

だからまた「満月の夕」をひとつ更新するべきときは必ずくる。

トシロウは「それをやる次の世代にバトンとして繋ぎたい」と語っている。

そんな言葉が頭に渦巻いてるとき、いつの間にか、アルバムの冒頭に戻って「真善美」がまた再生されていた。

「満月の夕」を聴いてぼんやりと考えていたこと。

それこそ、善の気持ちをバトンのように未来まで繋いでいくこと自体が真善美なのかもしれないよなあ。

そんなモヤモヤした考えを持っていたときに「お前が問う番だ」ってトシロウに歌われたとき、ハッとした。

1曲目は「始まりの歌」でもあって、このアルバムのまとめである「終わりの歌」でもあるんだなあ、と感じた。

このアルバムは循環して聴くと終わりがなく堂々巡りするような構造になっているし、けれどそれはただ循環するんじゃなくて、らせん階段のように少しずつレベルだけは上がっていく心地。

このアルバムもまたひとつの「尽未来際」が描かれているのだ。

だから、僕は「真善美」が一曲目なんだけど、それが一曲目には感じられず、冒頭のようなことを述べた次第なのである。

不思議と、最初はダサいって感じていた諸々の楽曲はいつの間にかダサくなんかなくなっていて、やっぱり音で心の闘志を焚きつけてしまうBRAHMANって、とてもカッコいいんだって思った、というそういう話。

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