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国家の枠組みとフェスの枠組みは意外と共通する部分がある。

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今回は、国=フェスという等式を借りて、フェスの話を少ししてみたい。

さて、フェスには当然主催者や運営がいるわけで、ここがルールを作ったり、フェスの制度設計をするわけだ。

モッシュ・ダイブは禁止にするなんていうルール作りから、トイレの数は幾つにするかまで、広範囲にわたる制度設計をしていくこととなる。

つまり、フェスの大部分は本質的に主催者・運営の思想が反映すると考えられる。

そういった事情もあって、アーティスト主催フェスはよりピースフルな空気になっていると感じたりするのだろうし、実際、そのフェスの節々にアーティストの哲学が宿っていることも間違いないだろう。

さて、フェスにおける主催者・運営を国に置き換えた場合、それは何になるだろうか?

答えは国家である。

国家が国のルール(法律)を作り、国の制度設計をしていくわけである。

フェスの頭脳は運営、国の頭脳は国家だからこそ、運営=国家という図式も成り立つわけだ。

また、お金の流れを考えてみても同じである。

フェスであれば、参加者がチケット代金として主催者・運営にお金を渡し、主催者・運営は貰ったお金を予算として、どのように使用・分配していくのかを考えていく。

国は税金という形でお金を徴収して、社会福祉費だったり、公共事業費だったり、防衛費だったりに振り分けて使用するわけだ。

先ほどの国家の税金の振り分けを強引にフェスに置き換えたらこんなふうになる。(極端なモノの考えたが)

社会福祉費→テントを張って直射日光を当たらないように整備、救護室の整備、トイレの増設、クロークの整備

公共事業費→物販の列が乱れないように的確な誘導スタッフの配置(インフラの整備)

防衛費→セキュリティーの配置

フェスだって国家だって、限られた予算の中でどう配分していくのかを考えていくことになる。

さて、お金の使い方は国家とも似ているという話をしたが、制度設計の部分でも似ている部分が多々ある。

先ほども述べたが、国家も運営もルール(法律)を整備していくことで、制度設計していくことになるわけだ。

フェスにおいては、よくダイブ・モッシュ論争になるわけだが、これはまさしく制度設計の話とリンクするわけだ。

一旦、国家の場合の制度設計の話をしてみたい。

国家の場合、制度設計を構築する態度として、二つの軸と二つの考え方がある。

政治的自由・保守と、経済的自由・保守である。

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一つずつ、みていていこう。

政治的自由とは端的に言えば、法律は最小限にして個人への国家の介入は最小限にしましょうよ、あとは個々に任せましょうよ、みたいな考えである。

保守はその逆で、ガチガチに法律で縛ろうという考えになる。

経済的自由は、税金を極力安くする代わりに国家は社会保障や福祉的整備なども最小限にするという考え方。

保守はその逆となる。

もちろん、自由・保守いずれにしてもそのバランスを見ながら政治を運営するわけだが、各政党は(タテマエでは)それぞれに対してどちらを重視したスタンスでいるのか、という話になるわけだ。

ここでフェスの話に戻ろう。

フェスにおいては、運営の意向により、政治的自由・保守あるいは経済的自由・保守が明確に色濃く投影されている。

ダイブ・モッシュを徹底的に排斥するロッキンは政治的保守の強いフェスと言えるだろう。

結局のところ、ロッキンはダイブによる事故を起こしたので(厳密にはCDJだが)、こういう舵切りをせざるを得なかったということもあり、より幅広い層や、フェスが初めての人にも快適に音楽を楽しめる空間を作ることを志向することになったわけだ。

そして、それを脅かす粒子は、徹底的に排除することを表明したわけである。

そのためには運営の介入だって厭わず、厳密なるルール統制をしていくことになったわけだ。

つまり、政治的保守を通底させることで、今のようなロッキンの環境整備を達成したわけである。

他のフェスはタテマエではモッシュ・ダイブ禁止を謳う一方で、結局のところは、それを容認するスタイルをとっているところが多い。

これは、自由・保守の対立軸で言えば、自由により立脚した状態であると言えるのだろう。

けれど、タテマエで禁止を謳うということは、ダイブやモッシュの風当たりが強くなると急に禁止の流れを強め、保守に移行する可能性が高い(こういう曖昧な態度だからこそ、企業主催のイベントは哲学がないのだと揶揄されやすいのだ)

ただし、現状、どんなイベントであれ、雷に対して「保守」を介入させないといけない状態になっている。

危険だから、というのがもちろん理由としてあるのだが、その動きをより強めたのは、某フェスで雷を打たれた死亡した女性がいるからだ。

この裁判はまだ裁判の渦中であり、どういう結論で折り合いを付けるのかまだ答えが出ていないわけだが、(ここで明らかになったのは仮に本人に責任があっても主催者側が最終的には責任を取らないといけないということである)以後に開催されるフェスは、そういった責任が取れないならば、リスクヘッジという形で対応をするしかないこと、落雷の恐れがあるならば必ずフェスは一旦中断をして、場合によっては早めに中止を決断しなければならないということである。

フェスシーンにおける保守・自由というのは、 世の中の空気と、参加者の態度によって大きく変動する可能性がある、というわけだ。

国家だって運営だって、本質的には国民(参加者)によってその様相を変えるのである。

フェスシーンにおいて、もう一つ言うならば、本音で言うなら音楽は可能な限り自由であるべきとイベンターであれどんな運営であれ、考えていると思う。

が、それは何でも自由にしましょう、というのが根本の主張ではなく、自分たちのしかるべき自由を担保するために、余計な大人たちを介入させないようにするために、個々がモラルをもって、守るべきものは守るようにしましょうよ、というメッセージなわけである。

だから、多くのフェスはグレーにするのだ。

ところで、フェスシーンでは政治的自由・経済的自由を求めることが多いバンドマンが多いのに、政治に対してわりと真逆の姿勢(要は、なんで国家は国民のために何にもしないんだよ?おかしいだろ?と反発姿勢)を示すのかが少し不思議だったりする。

まあ、国家がきちりと運営していくよう、常に監視の眼差しを緩めないことは大事だけだね。

まあ、そういう話です。

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