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ロックは反体制の音楽である。

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こんなことを本気で言ったとしたら、笑い草にされることは間違いないだろう。

ロックはただの音楽ジャンルになり、ただのファッションになり、人と人を繋げる(縁という意味でも、オフパコ的文脈としても機能する)道具に成り果てたわけだ。

「ロック」が「反抗」から生まれたもの、というのはただの幻想だったという話である。

が、この「幻想」をあえて、もう一度体現しようとしているアーティストがいる。

それはバンドマンではなく、あるアイドルグループ。

欅坂46だ。

彼女たちの代表曲の歌詞は、何かしら(大体は大人とか権力とかそういうわかりやすいもの)に対して「反抗」をしており、欅坂46というアイドルグループそのものが普遍的なアイドル像に「反抗」するような印象付けをされるように振舞っているフシがある。

サイレントマジョリティーは「大人たちに支配されるな」と語り、不協和音では「僕たちはYESと言わない」という宣言をし、月曜日の朝、スカートを切られたでも、既存の価値観に対して反発をする姿勢を見せている。

欅坂46が皮肉なのは「反抗」の象徴として君臨し、大人に対して敵意を剝きだしにするイメージを植え付けるが、そんなイメージを植え付けて操作している側が、欅坂の反抗の対象であるはずの「大人たち」であるということである。

要は、昔のロックと同じで、欅坂46の「反抗」は幻想でしかないということ、音楽は夢を見させることはできるけども、それは全て幻想でしかないということを、当てつけのように晒しているのが、欅坂46というアイドルグループなのだ、なんて僕は思ったりする。

さて、欅坂46は無理に敵をつくり、そこに「反抗」するイメージを作っている。

それにより「不安」「孤独」「苦悩」「罪悪感」「失望」「絶望」、そして「破壊衝動」を描くわけだが、ポイントなのはなぜこんな古典的な「反抗」の構図にぐっとくるのか、ということである。

誰よりも「反抗」を描いてきたロックが、ここ数十年、一部のアーティストを除いて、こんならわかりやすい「反抗」を描かなかったから、というのがひとつの解答になると僕は思うのだが、かといって、ロックバンドは何者に反抗しないで恋愛ソングばっかり歌ってきたかといえば、そんなことはないと思うのだ。

昔であれば、権力や大人、学校や政治に「反抗」を示せばよかったわけだが、絶望的な不景気により、それは敵でありながら敵ではなくなってしまった。

ロストジェネレーションなんて言葉もあるが、この世代辺りから、政治家にケンカを売ったところで何にもならないし、みたいな、ある種の諦念が強くなるのである。

そしてそれはバンドの「反抗」の姿勢にも現れていたのだ。

みてみよう。

戦うものがいなく、わかりやすい敵がいなく、なぜ自分が不幸なのか、どうすれば不幸から脱出できるのかに苦悩した挙句、全てを「童貞」のせいにしてしまい、「童貞」さえ克服すれば人並みの幸せがくると信じ、そこに対して明確な「反抗」をみせたのがゴイステ(銀杏)の峯田だった。

外を見ることはやめ、エヴァのシンジ君のようにずっと内側にこもり、内面世界と半永久的に対話し、内面世界の自分に対して「反抗」をしてみせたのがBUMPの藤くんだった。

アジカンのゴッチだって、本来的には自分の内面を歌うミュージシャンであり、どこに反抗すればいいのか途方に暮れている系バンドのひとつだったが、ゴッチは事あるごとに外側=社会に目を向けるようになり、その度にそれをモチーフにして「反抗」してみせた稀有なバンドである。

ちなみに、ゴッチは東日本大震災で、完全に眼差しが外に向いたというような印象である。

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結論として、敵は誰かわからないけど、それでも「反抗」をしなければならない使命感はあるから、どこかに敵を見つけ「反抗」をしていたのが、2000年代前半にブレイクしたロックバンドの特徴だったわけだ。

彼らもまた、ロスジェネ世代なわけである。

少し話は変わるが、同じロスジェネ世代でも、赤木智弘は『若者を見殺しにする国-私を戦争に向かわせるものは何か』という文書を書き、自分たちは政治にも未来にも期待かまできないから、自分の人生を浮上させるためには戦争しかないと解いた。

ロスジェネ世代の凶悪犯である加藤智大が起こした秋葉原通り魔事件だって、先行く未来に希望を描けず、どこに反抗したらいいかわからなかったからこそ、見ず知らずの人を殺してしまうという愚かなマネに至ったのではないかと思うのだ。

そもそも、青春パンクロックだって、実態としてみれば、自分たちの「反抗」の行き場もわからず、社会に対してリアルを感じることができないからこそ、「青春」にコミットするしかなかったし、青春を終えなければいけない人間が青春に固執するその姿勢こそが、ある種の「反抗」だったわけだ。

言いたいのは、僕の青春時代に流行っていたロックだって、何かしらの「反抗」はしていたということだ。

ただ、今の欅坂のように、わかりやすい敵は作ることはできず、それ故、安易な「反抗」できなかったということである。

逆にいえば、そんなフラストレーションがあったからこそ、荒々しいロックサウンドに「反抗」の意志を託したという向きもあるのかもしれない。

その一方で、くるりの「ばらの花」のような若者の空虚さを歌った歌が浮き彫りになるのが、この世代のロックバンドを語る面白さに繋がるのだが、話がややこしくなるので、ここはそこまで膨らまさないようにする。

とりあえず、現状のロックに目を向けなおそう。

リスナーをみると、ロスジェネ世代はロックリスナーは卒業したように見える。

そして、「反抗」なんてしても何も変わらないよ、という感覚を持った、さとり世代がロックのメインのリスナーになったわけだ。

こうなると、「反抗」のポーズを魅せるバンドはうざく感じるのかもしれない。

そりゃあ、ロックのキーワードも「踊らせる」になってしまうわけである。

東北ライブ大作戦系のバンドと、それ以降の若手バンドの間に隔たりがあるように見えるのは「反抗」に対する意識の違いなのではないか、と個人的には思ったりする。

や、別に若手バンドだって「反抗」しないわけではない。

ただし、「反抗」のレベルが、かなり身内じみたものになっている感は否めない。

リビジョンであれヤバTであれ、もはや社会なんて大きな枠組みはもうどうでもよくて、自分たちとその周辺という小さなコミュニティにのみ成立する「反抗」のポーズを見せて、身内で受けたらそれでいい、というスタイルが強くなっている。

社会に対しての「反抗」なんて古臭いわけだ。

となりフォロワーを「害悪」と罵るくらいのレベルの「反抗」で、充分満足できちゃうわけだ。

だから、音楽で反抗なんて構図はもはや時代遅れとなってきたわけだけど、そこがニッチになっていることを察知したからこそ、秋元康が欅坂というグループを使い、明確なまでに「反抗」という名の紛い物なドラマを描いてみせたのかもしれない。

「反抗」というものすら、秋元劇場の構造に落とし込んでしまったわけだ。

こんなとき、僕はふとミスチルの「タガタメ」の歌詞を思い出してしまう。

タタカッテ タタカッテ(戦って 戦って)
タガタメ タタカッテ(誰がため 戦って)
タタカッテ ダレ カッタ(戦って 誰 勝った?)
タガタメダ タガタメダ(誰がためだ? 誰がためだ?)
タガタメ タタカッタ(誰がため戦った?)

音楽で「反抗」なんてどこまでも幻想であると悟られた今、「反抗」する音楽は、誰がために戦い、誰に対して勝負を挑んでいるのだろうか?

そして、反抗する側だった僕も、いつの間にか反抗される「大人」の側になろうとしているとき、僕はまず何をすべきなのだろうか。

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