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ホルモンのライブツアーの詳細と対バン相手が発表された。

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マキシマムザ亮君によると、ツアーの詳細はオフィシャルサイトで見てほしいとのことなので、この記事ではその情報を記載しないが、対バン相手が豪華である、とTwitter上では話題になっていたことだけは明記しておこう。

さて、対バンといえば最近何かと話題になるのがワンオクである。

対バンのライブの中身やファンのマナー云々については散々Twitterなどで議論されているし、バンドマン側の思いとしては「みんな仲良くやろうぜ」ということに尽きるんだろうなあ、とは思う。

ちなみに僕も勝手ながらワンオクとWANIMAの対バンを受けて記事を書いており、とりあえずの個人的な思いはそこに集約している。

その記事はこちらから!

ただ、これを書いて思ったのが、モッシュしている=盛り上がってる、というわけではないことである。

傍目からは身体が動いていなくて盛り上がっているようにはみえない人でも、心の中ではその音がぐっさりと刺さっていることはある。

ノリ方がよくわかんないから大人見なんだけど、視線と耳は名前もよく知らないそのバンドに釘付けになっている、ということがあるわけだ。

WANIMAの対バンがそうだったのかはわからないけれど、身体を動かしている人がいないからといって、その人が刺さっていないわけではないと思うので、そこは追記しておきたい。

また、このライブが行われたエコパアリーナは1万くらい集客できるアリーナなわけで、観る位置によって、温度差が大きく違ったことは想像できる。

地蔵ばっかりだったとクレームがある一方、自分の周りはノリノリの人ばかりだったという報告があがるのはそういうことであり、一部を指して全体を語るのは良くないなあ、ということも改めて書き記しておく必要があると思う。

でも、その一方で、前述の記事で指摘したように、音楽の消費のされ方が狭くなっており、音楽という土壌そのものが豊かではなくなっているというのは感触としてあるし、色んな音楽が好きな人ならば痛切に感じることだと思うのだ。

なぜそんなことになってしまうのか。

これはネットの功績であり大罪だと思う。

というのも、見たいものだけを目にするようなシステムの構築、というのがここ最近のネットの情報の流し方のトレンドである。

アマゾンなんかでは過去に購入したものから自分の好みを算出し、「こういうのならお前、好きでしょ」みたいに提示するわけだ。

自ずと自分の好きなものばかりが目に入りやすくるわけだが、それはつまり、別の価値あるものと接触すらチャンスを減らしているということである。

また、Twitterも同じことであり、好きな人や同じ好みの人ばかりをフォローし、そのタイムラインばかりを眺めていると、まるで自分が好きなものだけで話題になり、そればかりが溢れているような錯覚を覚える。

現実ではそのアーティストのファンを見つけることすら大変なのに、Twitterにいけば同志がたくさんいる状態が生まれ、そこの居心地が良くなるわけだ。

いつしかそのネットの世界の方が自分の現実よりも大切なものになり、その結果、価値観の固定化と視野狭窄を生んでしまう。

そういった流れがあるからこそ、自分の興味のないバンドが出ている間はずっとケータイを見る、という人が出てくるのだ。

興味のない現実より、身内と同志がいるネットこそが大切であり、そこが世界の中心となるわけだ。

どうみてもライブ中なのに「めっちゃ感動した」とかやたらと感想ツイートする輩も同じであう。

また、ケータイが現実というのは概念は、撮影厨にも敷衍できる考えだ。

フェスにおけるライブマナーでよくある、ライブは撮影するよりも肉眼で焼き付けろ的なアレ。

今、目の前にある光景こそが本物であり、それは「記録」として残すのではなく「記憶」として残しておくべきだという訴えなわけだが、ケータイの世界の方が大切という人に、それを訴えても「だからなに?」という話になる。

それを「記録」として保有して、SNSで共有し、「仲間」に自慢したりコミュニケーションをとる、その世界こそがなによりも大切である人にとっては、今目の前広がる光景自体はコミュニケーションにおける「ネタ」でしかないわけだ。

だって、ネットの世界こそがなによりも「現実」なわけなのだから。

こうして、ネットにより、人類は小さなグループに裁断されるようになったわけであり、それが派閥や対立を生む構図を作っている。

グループ化していくのはいいが、それなら視野狭窄にならず、多様な価値を認めていけばいいのに、なぜか対立をうみ、そこにコミュニケーション不全を生み出していく。

なんなら、ファン同士ですら無意味な対立を生んでるケースだってあるわけで。

むむむむ、といった感じである。

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ところで、こういうコミュニケーションの断然が起きる理由ってなんなのだろうか。

色んな考え方ができると思うが、結局のところ、自分が相手よりも「上」であろうとするから対立というのは起きるのだと思う。

例えば「OORerはクソだよなwwww」とディスる他のバンドファンも、「Takaが最高で他のバンドなんてカスだよなwwww」と訴えるワンオクファンも、構造としては、相手よりも自分の方が上であり、かつ、その上の状態で相手に向かって言葉を放っていることがわかる。

この「上」の状態から「上」であるままのコミュニケーションをとろうとしたとき、人と人の断然が生まれてしまうのだ。

これをやめたらコミュニケーションはもっとスムーズになるわけだ。

例にして考えてみよう。

自分が外国人とコミュニケーションをするときのことを想像してみたらわかる。

そのとき、おそらく自分は拙い外国語を使って、なんとか外国人に自分の気持ちを伝えようとするはずだ。

そのとき、相手の外国人もその拙い外国語からなんとか相手の言いたいことを汲み取ろうとするはずだ。

そのときにあるのは「上の状態から上から目線の言葉」ではなく、「下に降り立ってお互いが共有できるところを探す営み」である。

また、自分が子供とコミュニケーションをとるときのことを考えてみてほしい。

そのとき、自分は子供でもわかる言葉とはなんだろうかと考え、子供と同じ目線にたって喋ろうとするはずだ。

このときも、下に降りていき相手と共有できるものを探って、コミュニケーションをとるわけである。

男と女のコミュニケーションだって同じだ。

モテる人間は相手のことを想像して、上からものは言わず、下に降りるようにして「共有できる場所」を見つけ、それを理解したうえで言葉を放ち行動しているはずである。

ファン同士のコミュニケーション、あるいは同じファンでも価値観が違うなーと思う人とのコミュニケーションでも、そういう形を取れば、もっとより良い関係を築けるのではないかと思うわけだ。

先ほどのワンオクファンをdisる人間と、ワンオクしか見ていない信者においても「下に降りて相手を見る視点」を与えたら、たぶんすごく仲良くできると思うのだ。

たぶんそれができたら、「お前って悪いところもあるけど良いところもあるじゃん」となるし、「ワンオクはかっこいいけど他のバンドもけっこうかっこいいのな!」って感じになると思う。

対バンライブにおいても同じだ。

本命のバンドの方が良いんだという謎の驕りがあるからこそ、揉めるようなマナーをしたり揉めるような行動を取ってしまうのであり、ひとつ自分の立ち位置を下げてそのバンドをみれば、どのバンドも必死で見よう!ってテンションになると思うのだ。

そしてこれは、なにもワンオク対バンライブに限った話ではない。

ホルモンの対バンライブだって同じような問題が起こりうる可能性はあるし、槍玉にあげられたWANIMAの対バンライブだってそういう可能性を孕んでる。

不思議なもので、中途半端に音楽が好きな人ほど自我が肥大化し、色んな音楽をdisる傾向がある。

ちょっと洋楽を覚えた人間は、邦楽なんてカスだと言いがちだし、ちょっとオザケンにハマった音楽通は、他のJ-POPなんてクソだと言いがちなわけだ。

それってつまるところ、自分が上に上り、そのまま上から目線で物を言い始めてるからに他ならない。

けれど、自分の目線がちょっと上からになっているなーって気づき、そこから降りることを覚えれば、どんな音楽でもドキドキできたあの純粋な気持ちに簡単に戻れるようになるはずだ。

こういう姿勢こそが、本当の意味での音楽の豊かさにさせる社会作りに繋がると思うのだ。

その昔、BUMPがくるりと対バンしたとき、お客さんの9割がくるりファンでBUMPメンバーがビビってたらしいけれど、ファンの人たちがあまりにも暖かくて迎え入れてくれたから、BUMpメンバーが感激してしまい、普段なら打ち上げなど参加しないBUMPメンバーが全員打ち上げの参加した、という微笑ましいエピソードがある。

つまり、ファンの姿勢が変わればバンドにも良い影響を与えるし、対バン相手のライブが盛り上がれば、相手のバンドも良い演奏をするのだということだ。

だからこそ、大事にするべき考え。

上にいるなー、意識高い系になっているなーと思ったら一度下へ。

この意識で変わることは多いし、色んなことが豊かになるんじゃないかという話。

別に日常までに気を回さなくていいから、まずは対バンライブにおける心構えくらい、そういうふうであってもいいんじゃないかという話である。

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