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CDが売れなくなった昨今、メシを食うためにはライブで稼ぐというのがほとんどアーティストの認識になりつつある。

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実際、ここ数年の数字だけで言えば、ライブやフェスの動員数は右肩上がりになっている。

ライブは音源と違い、その体験が複製できないので、音源にはお金を払わない人もライブにはお金を払うのだ、というのが、その理由におけるひとつの模範的な回答となっている。

そして、その「体験」をより強いものにすべく、フェスはアミューズ化あるいはお祭り化していく傾向があるし、ワンマンライブは視覚的な要素を効果的に使い、エンターテイメント性や芸術性を高くしていく傾向があるように思う。

これも全て「体験」の濃度を強めるためである。

ところで、なぜ人は「体験」を求めるのだろうか。

本心として、どういう「体験」を求めているのだろうか。

観客には、ふたつのタイプがいるように感じる。

ひとつはアーティストのライブを楽しむ層。

もうひとつは、アーティストのライブを楽しんでいる自分の承認欲求を満たすためにライブに行っている層。

端的に言えば、音楽そのものを楽しんでいる層と、音楽を媒介にして他者とのコミュニケーションを楽しんでいる層、ということになろうか。

Twitterで邦ロックが趣味というアカウント、特に交流目的でアカウントを作っている人の動向を見れば、その実態がよくわかる。

自分のライブ参戦履歴を晒し、ライブ終わりには仲間と記念撮影してそれをSNSでシュアし、それをきっかけに仲良くなってみんなで飲み屋とかに行き、そこで友達を増やしつつタイプの異性とも仲良くなればなおよし、みたいな感じでライブ充をしていることがわかる。

こういうタイプの場合、ライブ以外でもありとあらゆる手段で自分を演出し、その承認欲求を満たし、その全てを他者とのコミュニケーションに繋げようとする。

例えば音源を買えば、それを一度SNSでアップして周りに報告し、幾つかの「いいね」を得てからその音源を聴き、その音源を聴き終われば、共感されそうな言葉で並べた感想を呟くことで、更にたくさんの「いいね」をもらうのである。

こうすることで、自分の承認欲求を満しつつ他者とコミュニケーションするのである。

本当に交流のことしか考えていないような奴は、そのアーティストのことが好きと公言していながら新譜なんかは完全にスルーし、一切そのアーティストにお金は落とさないようにしつつも、他の人のアカウントの動向だけはしっかり目を配らせ、感想を呟いている人を見つけたらテキトーに「いいね」をしてみたりリプをしたりして、「あーもう○○の新譜出たんだー早く買わなきゃー」とか「あ、よかったらそれ返してよ」みたいなやり取りをするのである。

要は、新譜発売はあくまでも人とコミュニケーションを取るためのきっかけにしか使わないわけである。

けれど、そんな人でも、ライブだけは絶対にいく。

なぜなら、みんなに会えるからである。

つまり、音楽は「目的」ではなく、コミュニケーションをするための「手段」として機能させているわけである。

そして、こういう層をしっかりと取り込むことができたからこそ、フェスは人気になり、ライブ人口は増加し続けているのだと思われる。

コミュニケーションのやり方は人によって様々である。

Youtubeなどで恋ダンスやPPAPのような「踊ってみた」の動画をあげるのも、あるアーティストの絵を自分で書いてそれをアイコンにするのも、そのひとつのあり方だ。

これらは、結局のところ、誰かに認められたいから、自分の何かで他人とコミュニケーションしたいから、というのがベースとしてあると思う。

とはいえ、人から褒められるレベルのダンスをしたり絵を書いたりするのはそれなりの努力が必要であり、普通の人からすれば、それは面倒臭い行動に値する。

より少ない努力で、自分の承認欲求を満たし、コミュニケーションを取りたいと考えるのが普通だ。

そこでもっとも一般的なやり口となるのが、写真を撮るという行為である。

これがもっとも簡単に「いいね」をもらう方法のひとつなのだ。

フェスやライブに参戦した人が異様に写真を撮りたがるのは、そういう心理が背景にある。

Instagramの登場により、写真の価値はより大きくなり、どんなにへぼい写真でも簡単に「それっぽく」加工できるようになったので、よりその流れは加速しているように感じる。

また、ライブ終了後に集合写真を撮り、SNSにアップするライブキッズが多いのも、同じ理屈である。

写真はコミュニケーションを取るためのキーマンとも言える存在なので、もっとライブやフェスで写真を撮るチャンスを増やしてあげたら、ライブはより活性化するのではないかと個人的には思うのだが、如何だろうか。

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いずれにせよポイントとなるのは、人はコミュニケーションを求めており、音楽というのはコミュニケーションするためのツールとしての意味合いが大きいということであり、ライブはアーティストの演奏を観るためのものというより「コミュニケーションをするための「場」としての意味合いが大きいということである。

下手をすれば、ライブの体験をより深いものにしたいから友達を作るのではなく、友達と会いたいからライブに行くという逆転現象すら起きてくるわけだ。

新参が入りにくい、中堅のメロコア系のライブにいくと大半が顔見知りだった、という話もよく聞く。

実際、京都大作戦のようなメロコア系フェスは身内感のある空気が漂いやすい。

これはアーティスト同士の結び付きもさることながら、そもそもファン同士が最初からライブハウス・SNSのおかげで知り合いだったからというのもあると思う。

さて、コミュニケーションのためにライブに行ってる人が多いことを裏付ける事実として、若者の洋楽不人気があげられる。

洋楽がなぜここまで人気がないのかについては色んな切り口から語ることができるが、理由のひとつとして、自分の周りがまったく聴いていないから、というのがあげられると思う。

友達を作るために音楽を聴くならば、よくわからないバンドを聴くより、フェスで人気のバンドを聴く方がいいに決まっている。

洋楽を一生懸命聴いても友達は増えないので、魅力に感じにくいわけだ。

若者にとって、音楽というのは人と繋がるためのものであり、その繋がりを強くさせるために、SNSや写真があるというわけである。

つまり、ライブの「体験」の価値は、こういったコミュニケーションも含めてあるということである。

逆に言えば、AbemaTVで無料のライブ映像を流そうが、Youtubeで盗撮まがいのライブ映像をアップされていようが、CDの特典にライブDVDを付けようが、本物のライブの価値自体が損なわれることは絶対にないということにもなる。

ライブは生の人と出会えるのが最大の魅力なのだから。

ところでこんなことを言うと、一人でライブに行く、いわゆる「ぼっち参戦」しかしない人はどうなるのだ?という反論が沸きそうである。

けれど、そういう人だって、SNSを通じての感情の共有はしているはずだ。

場合によっては、一人ゆえに逐一細かなライブレポートをツイートすることで、みんなから「いいね」をもらうような人だっている。

こういうことをするのは、自分の承認欲求を満たしたいという願望の現れだし、誰かとコミュニケーションのとりたいという欲望が成せる技なのである。

音楽とコミュニケーションは、切っても切り離せない関係なのだ。

問題なのは、こういう流れを推し進めていくと、フェスやライブハウスはみんなで集まるための場としてしか機能しなくなり、そこで鳴らされている音楽がどんなものであるかには関心が示されなくなり、やがては音楽そのものの価値が下がってしまうという懸念が出てくることである。

実際、フェスで人気があるバンドはワチャワチャ色の強い縦揺れ系のバンドが多く、バラード重視のじっくりと聴かせるようなタイプや、グルーヴ重視の横揺れ系のバンドは人気が出にくい。

音の質より、みんなで楽しめかどうかが大事というわけである。

また、若者のなかで新しいアーティストの音源を聴くことを「予習」と言う人が多い。

これはフェスに参戦するとき、そのフェスに出るアーティストの音源を聴くことを意味する言葉なのだが、これはつまり音楽を聴くという行為は、あくまでライブを楽しむための「準備」であるという認識が頭のどこかにあるということである。

音楽を聴くという行為が「作業」になってしまっているということを意味しているわけだ。

このままでは、音楽そのものの価値は下がり、ただのコミュニケーションの道具に成り下がってしまう危険性もあるわけだ。

確かに音楽に関心がない人も現場に足を運ばせたという意味で、ライブ史上主義の功績は大きいと思う。

けれど、そこからもう一歩発展させて、音楽そのものの価値を上げる必要があると思うのだ。

音楽なんてなくても困らないと考えている人も、最終的には「音楽があった方が人生は豊かになる」と錯覚させる必要があるのだ。

そういう人が増えれば、音楽のあり方、音楽における社会の影響力は変わってくると思うのだ。

そのためには、どうすればいいか。

答えは簡単に出てくるものではないが、コミュニケーションをしたいから音楽を聴くという若者をみていれば、そのヒントはあるように感じる。

すごく極端なことを言えば、フランク・オーシャンを聴いてそれを歌えるようになれば新垣結衣とデートができるとなれば、日本におけるフランク・オーシャンの知名度は格段にあがることだろう。

ここまで極端なことはしなくても、音楽に詳しいことはクールなことである、という認識が生まれたら、音楽について語る人間の数は増えるだろうし、ノリでダイブする人間は人間扱いされないという空気になれば、本気で飛びたいとき以外は誰もダイブしなくなると思う。

つまり、音楽とコミュニケーションのさせ方をセットにして音楽というものを提供する、というスタイルを貫くのである。

これはラジオに近い考え方なのかもしれないが、ラジオよりもよりフラットで、より欲望に忠実なやり方が望まれると思う。

怒れるかもしれないけれど、Suchmosが人気になったのは、きっとSuchmosみたいな音楽を聴けばかっこいいと思ってる人がいたからだし、そうやってSuchmosを聴いている人のことが好きで話を合わせるために無理して聴き始めた、という人も絶対にいると思うのだ。

これと同じにように、フランク・オーシャンを聴けば好きなあの子とお近づきになれるとなれば、WANIMAしか聴かなかった若者も、無理してフランク・オーシャンを聴くのではないかという話であり、我慢してそれを聴いていたら、いつの間にかそれなしには生きてはいけない身体になってしまうのではないかという話である。

日本人は影響されやすい生き物だから、そういう可能性は常にあると思うのだ。

まとめれば、人の欲望に着目しそこを上手く刺激することが、結果として音楽の価値は上げるのではないかという話である。

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